散歩をする 506 走水を歩く

2月初旬、日差しが暖かいのにつられて、海を見に行きたくなりました。

 

そうだ、三浦半島で気になっていたあの場所を歩いてみようと、逗子行きの湘南新宿ラインに乗りました。武蔵小杉まで並走する区間も残念ながら新幹線に1本も出会いません。こんな時間帯もありますね。

起伏のある丘陵地帯だというのに地形もわからないくらいに家が建ち、わずかに残っていた場所も造成され始めていました。山があるようでない横浜周辺の風景ですね。

1970年代ごろに建てられた家はまだ少し庭があったのに、今はそれも切り売りされて本当にマッチ箱のような家がぎっしり建ち、その日差しを遮るかのように高層マンションが林立し、人口は多いはずなのに誰も歩いていなくて、ちょっと寂しそう。

住宅の半世紀ほどの移り変わりをぼっと考えているうちに、柏尾川沿いに残る田んぼが見えて大船観音を過ぎました。

 

12時30分に逗子駅に到着し、久里浜行きに乗り換えです。今までの風景とは一変して、沿線は山が残ってホッとする風景です。家もゆったりと建っています。都市計画はどこに違いがあるのだろうと思っているうちに田浦のトンネルを過ぎて横須賀中央駅に到着しました。

 

バスの時間まで少しあるので、海岸沿いにでて自衛隊と米軍の艦船を眺めました。案外と一人で船を見にきている女性がいるようです。

艦船の修復作業をしているのが見えました。どんな業務でどんな手順や技術が必要なのでしょう。知らないことばかりです。

ちょうど艦船が出航していきました。結構速く、そして並走する船がとても小さく見えました。

 

 

*走水(はしりみず)神社へ*

 

13時9分発のバスに乗ると、あっという間に満員になりました。海沿いの平地を抜けるとぐいっと高台へと上り海が見えるようになりましたが、海底まで見えるほど透き通っています。

またあっという間にくだり、走水漁港のそばを通過して走水神社前で下車しました。

 

 

国道16号線から一本山側の道沿いにある鳥居をくぐって、ふと後ろを振り返ると参道の向こうに濃紺の海が見えて、大きなタンカーが通過していきました。

 

石段を上がって本殿に立つとまた先ほどよりは高い位置から浦賀水道が一望でき、富津のあたりでしょうか、千葉の海岸線まで見えます。

 

横須賀風物詩 走水神社

 走水の地名は、すでに古事記(七一二年)や日本書紀(七二〇年)の中に表れています。大和朝廷時代には、上総(千葉県)を経て東北地方に渡る最も便利な道として、この地方に古東海道が通じておりました。

 走水神社の祭神は、日本武尊とその后弟橘媛命の二柱です。神社の創建された年代については、享保年間の火災で、神社の記録や社宝が焼失してしまったのでわかりません。伝説では、景行天皇の即位四十年(一一〇年)、東夷征討の命を受けた日本武尊が、この走水から上総へ渡られるにあたり、村民に「冠」を賜りましたので、冠を石櫃に納めて、その上に社殿を建て、日本武尊を祭ったことに始まると伝えています。大和武尊が渡海の際、海上が荒れ、いまにも舟が沈みそうになりました。海神の怒りであると考えられた弟橘媛命は、

 さねさしさがむのをぬにもゆるひの

  ひかにたちてとひしきみはも

の歌を残し、日本武尊に代わって海に身を投じ、風波を鎮めました。弟橘媛命は、元旗山崎に橘神社として祭られていましたが、その地が軍用地に買収されたため、明治四十二年、この神社に祭られました。

 明治四十三年六月、弟橘媛命の歌碑が、東郷平八郎乃木希典など七名士により、社殿の裏手に建てられました。

 社殿の階段下の右側にある「舵の碑」は、弟橘媛命の崇高な行いにあやかり、航海の安全を願って国際婦人年(昭和五十年)を機に、また、左側にある「包丁塚」は、走水の住人大伴黒主が、日本武尊に料理を献じて喜ばれたとの古事により、包丁への感謝と鳥獣魚介類の霊を慰めるため、昭和四十八年に建てられたものです。

 

後半の文章は、軍港にふさわしいとされた地であるが故の白を黒に、黒を白にの時代の葛藤なのかもしれませんね。

 

古代の人はこの海の風景を見て、なぜ「走水」と名前をつけたのでしょう。

水に関わる場所らしいと推測できるのですが、どんな歴史がある街なのでしょう。

 

 

 

ということでようやく2月の散歩の記録に入りました。

どんどん散歩の記録がたまっています。

 

 

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