生活する 45 「生活の場を歩く」と「生活の場を歩かれる」

8年ぐらい前から都内の川沿いなどを歩き始めました。

 

しだいに全国津々浦々の川や水路や田んぼを訪ね歩くようになりましたが、いつも歩いている自分を家の中から見ている感覚があります。

 

その感覚はいつ頃からあるのか思い返すと高校生の頃で、当時過ごした地域は目の前が田んぼで、田畑の畦道を通学路や犬の散歩のための生活道として使わせてもらっているのを所有者さんが見ている、あたりでしょうか。

また、1970年代になるとその頃流行り出したオリエンテーリングで住宅の庭のそば歩く人がぼちぼちと出現して、近所の人でない人が歩いていると家の中から「誰だろうね」と家族で警戒していました。

実際に母が大事に育てていた花を盗まれてしまったこともありましたからね。

 

ですから、ここ数年あちこちの田んぼや水路そして集落を訪ねて歩くことが増えたのですが、人気(ひとけ)のないように感じる場所でも家の中から見られているだろうなと思い「そっと歩かせてもらっている」「散歩させてもらっている」という感じです。

 

 

*観光とも違う*

 

新幹線や鉄道を使って遠方を訪ねて1、2泊するので、移動している人の中にいると私も観光客の一人なのだろうなと思いながらも「いや私は観光ではなく散歩」だとなんだか一線をひきたくなって気がしてきました。

まあ、「散歩」の言葉もいつからどのように使われてきたかもあいまいですけれど。

 

なぜこんなことを考え出したかというと、昨年来、急激に外国人観光客が増加して大きな荷物を持って集団で移動するので、新型コロナ以前以上の混雑と通勤時間帯の人の流れが混乱しているという微妙に生活を変えさせられている状況に、「観光」と「観光でない散歩とか旅とか」の違いはなんだろうと気になり出したからです。

 

「観光」と表現した雰囲気には、相手の生活の場に入っているという感覚があまり感じられないなあというあたりですね。

 

私がよその地域を訪ね歩いてもそれは「観光」とは呼びたくないし呼ばれたくない、そんな感じです。

 

 

*誰が「観光立国」を求めているのだろうか*

 

 

なぜここ10年ぐらい、観光が話題になっているのだろうと気になっていたところ「観光立国」という言葉に突き当たりました。

 

「国土交通白書2022」の「第3章 観光立国の実現と美しい国づくり」に「観光立国の意義」が書かれていました。

 観光は、成長戦略の柱、地方創生の切り札である。新型コロナウイルス感染症拡大により、深刻な影響が続く観光関連産業の事業継続と雇用維持を図るため、実質無利子・無担保融資による資金繰り支援や雇用調整助成金の特例措置など、関係省庁が連携して支援を行なってきたほか、観光需要の喚起策や、宿・観光地のリニューアル、観光コンテンツの充実、デジタル化の推進に関わる支援など、多面的な支援を実施してきたところである。自然、食、文化、芸術、風俗習慣、歴史など日本各地の観光資源の魅力が失われたものではない。ポストコロナ期においても、人口減少を迎える日本において、観光を通じた内外との交流人口の拡大を通じて、地域を活性化することがこれまで以上に重要であることから、「住んでよし、訪れてよしの国づくり」を実現する持続可能な観光に向けた取り組みを進めつつ、引き続き、政府一丸となって取り組む。

(強調は引用者による)

 

「観光は」を他の産業に置き換えても通じるぐらい、どの仕事も生活が厳しくなっていますね。

 

ところで「観光立国」とはいつ頃から言われ始めたのだろう、誰がその方向を求めたのだろうと思ったら、「日本の観光政策」によれば、「2007年には観光基本法に代わり観光立国推進基本法が施行され観光立国推進基本計画が閣議決定されるなど、「観光立国」に向けた取り組みが行われるようになる。」とありました。

 

2007年ごろ、何がどう動いて、誰が「観光立国」を求めたのだろう。

当時はどんな社会の雰囲気だったのだろう。

「観光立国」を求めている人はどれくらいいるのだろう。

その弊害はどのような形で現れるのだろう。

 

「住んでよし、訪ねてよし」から近江商人の「三方よし」を思い出したのですが、一つ足りないとしたらそれは何なのでしょう。

 

 

 

「生活のあれこれ」まとめはこちら

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら