「越すに越されぬ大井川」を十秒もかからない速さで過ぎると、右岸の平地は少なくてあっという間に牧之原台地のトンネルへと入ります。
トンネルを出ると両側の風景は丘陵地の斜面の茶畑や畑地になり、ほどなく東から西へと流れる掛川の逆川にそって谷戸のような地形にそって水田が増えてきます。南側の丘陵地帯に溜池が増えて、工場もポツポツとあり、袋井を過ぎるあたりから線路の両側に水田地帯が広がり始めます。
このあたりの水田地帯はそれほど大きくない逆川と山側からの豊富な水が水源なのかなと、想像しながら田んぼを眺めていました。
*戦後の期成同盟による大井川用水事業計画*
大井川左岸の田んぼの水源はどこなのだろうと検索したところ、大井川土地改良区の説明を見つけたのですが、その「大井川用水の歴史」の中の絵図を見て焼津から袋井まで広範囲に送水していることに驚きました。
袋井のあたりだと、むしろ「天竜川左岸」と思うような場所ですし、「大井川右岸」といっても間に牧之原台地を挟んでいます。
大井川沿いの江戸時代に作られた水門による稲作から、終戦後に広範囲なかんがい事業計画が行われたことがその歴史として書かれていました。
用水事業のはじまり(かんがい事業の創成期)
昭和22年、この状況をなんとか解決しようと、志太郡(しだぐん)・榛原郡(はいばらぐん)の町長や村長たちが立ち上がりました。取水の根本的は改良と、かんがい用水路を新しく作ることを国や県に呼びかけようと、大井川用水改良事業期成同盟を結成し、続いて、大井川用水普通水利組合を設立しました。
国に対して、地元出身の県会議員の協力により何回も陳情(ちんじょう)したり、地元出身の国会議員を通して国会に要望するなど、さまざまな働きかけを行いました。こうした活動が実を結び、この年、ついに国営かんがい事業として決定されました。その計画は、12の取水口を大長村相賀(おおながむらおうか)の赤松地先に合口(ごうぐち)するというもので、12の水門で取水していた毎秒27.78立方メートルの水利権が認められました。その後、合口の位置は、神座地先に変更し、昭和27年には国営だけでなく県総合開発事業も加わることになりました。
最終的には、大井川から直接取水するのではなく、川口発電所放水口の下流口から取水する計画になり大井川、幹線隧道によって神座に分水工を構築し、ここに水を引くことになったのです。取水量は毎秒36.80立方メートルに増え、配水区域も金谷および小笠平野にまで拡大しました。
それぞれの地域の取水量は、大井川左岸は当初の計画通り、毎秒25.92立方メートル、金谷・毎秒3.72立方メートル、大井川右岸・毎秒6.5立方メートルです。こうして目的を達成した大井川用水改良事業期成同盟は解散し、大井川用水普通水利組合も発展的な解消となりました。
そして新たに、昭和26年8月、大井川土地改良区が設立されました。以来、改良区は、事業の推進に当たり、国営附帯事業、県営かんぱい事業、団体営事業など、それぞれの事業を計画してきました。昭和43年、約20年の歳月と8億円にも及ぶ巨費を投じた、国営かんぱい事業はようやく終了しました。大井川流域に、35,000mの幹線の用水路が新しく開発されたのです。
戦争直後の食糧難や労働力不足だけでなく、復興し始めても「市民の心はなかなか混迷を抜け出せない」混沌とした時期に、あちこちの地域でさまざまな目的の期成同盟が作られて住民が目標に向かっていった時代、私が生まれるわずか前までそんな雰囲気だったようです。
この時代の農業の雰囲気はどんな感じだったのでしょう。亡くなって久しい祖父母に、今ならたくさん質問してみたいものです。
*扇状に大井川用水の水路網が広がっていった*
その後、焼津を過ぎると東海道新幹線の車窓から見えるあの二級河川朝比奈川のあたりまで、そして大井川右岸の金谷から袋井の小笠地区まで用水路が広げられたようです。
用水路を広げよう(かんがい事の拡充期)
一方、この事業のさなか、昭和37、8年ごろになると日本の経済は高度成長期を迎え、全国各地で工場や住宅団地が開発造成され、そのために、農地の転用が増えていました。昭和42年には実に大井川流域1,000ヘクタールの農地が転用されたと記録されています。
この当時、瀬戸川(せとがわ)の下流地帯960ヘクタールの水田では、用水を瀬戸川と葉梨川(はなしがわ)、朝比奈川(あさひながわ)などの表流水や湧水にたよっていました。ところが、川の上流部や沿線の開発によって表流水や湧水が不足しはじめ、年々深刻な問題になっていました。
藤枝(ふじえだ)・焼津(やいず)の両市長は、この地域に何とか大井川用水を導入したいと、大井川土地改良区に申し出ていたのです。
県ではこの地域を詳しく調査し、その結果、やはり補給水が必要だということで、昭和42年、県営かんぱい事業がスタートしました。藤枝市(旧藤枝町、旧西益津(にしましず)村、旧広幡(ひろはた)村、旧青島(あおじま)町、旧高洲(たかす)村の一部)と、焼津(やいづ)市、(旧東益津(ひがしましづ)村、旧焼津(やいづ)町、旧豊田(とよだ)村の一部)の水田960ヘクタールに大井川用水を補給水として送ることが決まったのです。そして、団体営事業、県単事業に受け継がれ、昭和47年に完成しています。経済の高度成長にともなって転用された農地1,000ヘクタールに代わる新地域の加入でした。
昭和25年に始まった大井川土地改良区管内の県営かんぱい事業は、藤枝・焼津の新地域も含めて、昭和47年についに完了しました。22年の歳月と32億円をかけた一大事業によって、なんと124キロメートルにも及ぶ用排水路が新設改良されたのでした。
1972年(昭和47)完成ということは、大阪万博へ向かう新幹線の車窓からは完成前の水田地帯の風景が見えていたのですね。
記憶がまったくないことが返す返すも残念です。
*おまけ*
今回引用させていただいたのは「大井川土地改良区」のサイトですが、「大井川右岸改良区」のサイトも個別にあるようで「水不足に悩まされた小笠地区」の説明がありました。
その下の写真に、なんと東海道新幹線のすぐそばを川が流れていて水門が写っています。
どこなのでしょう。次回見逃さないようにしたいし、ぜひ歩いてみたいものです。
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