10年ひとむかし 94 目に見えない別の国境

散歩の2日目は、東海道新幹線の車窓から見ていた新居町駅そばの小さな船溜まりの近くを歩くことができました。

 

中世の大地震によって浜名湖周辺の地形が変わった場所が江戸時代には東海道として栄えて船が行き来していたこと、その先の白須賀宿のあたりは水をえにくい場所だったものが豊川用水からの湖西用水によって農業や工業地帯として発展したこと、そして浜松駅の西側には夢の超特急の安全と安心の1丁目としての整備工場があることと、中世から現代までのこの地域の歴史がおぼろげながら見えた散歩になりました。

 

念願のあの船溜まりを眺めていたら、引き潮で水流が激しそうな中でダイバーたちが何か作業していました。

こういう場所を維持するための作業だろうかと思いながら見えていたのですが、ホテルでニュースを見ていてつながりました。

その数日前に17歳の高校生が遺体で発見された事件の捜査だったのだと。

 

 

*「〇〇籍」の30年*

 

散歩に出かける直前には、高校生が日本人を父に持つ中国籍であることや暴行した側もまたフィリピン国籍とかブラジル国籍ということが少しずつ伝えられ始めていました。

 

最近、さまざまな事件が起こるたびに、「犯人や犠牲者が新生児だった頃はどんな時代だったか」がとても気になるようになりました。

とりわけ、こうした「父母のどちらかが日本人」「親が日本に働きに来た」といった背景を持つ人たちについてです。

 

1990年代初頭には外国籍の人や日本語を話せない人の出産がぼちぼちと出始めました。

言葉の壁、文化の違いを受け入れるだけでも病棟では大変でした。

なんとか身振り手振り、そして片言の英語や漢字の筆談で、無事にお産が終わりお母さんと赤ちゃんが退院していかれると、スタッフ一同、どっと緊張感から解放される感じです。

 

最初は、当時中国残留日本人の帰国が本格化しその子どもたちが出産の年代になっていた頃で、「日本人」だけれど日本語も話せないし日本の生活にも慣れていない方たちでした。

中国では「日本人帰れ」、日本では「中国人帰れ」と言われる理不尽な人生、私と同世代だというのにあの戦争のあと同じ時代を生きていたのに、我と彼(女)の差はどう考えたらよいのだろうと答えのない葛藤がありました。

 

 

90年代半ばごろには、エンターテイナーと呼ばれた東南アジアからの女性たちの出産が増えました。

最初はオーバースティとして日本で生き続けようとした人たちにも少しずつ特別在留許可証の道がひらけて、日本人男性と婚姻関係がある人たちも増えてきました。

最近では、その頃赤ちゃんだった人たちが出産するために入院することがぼちぼち増えました。

 

2000年代に入る頃には韓国の方の出産が一時期増え、また自国では一人しか出産できないからと日本で二人目を出産する中国の方が出現し始めました。厳しい一人っ子政策なのに、法的な抜け道があったのでしょうか。

日本で出産した赤ちゃんを連れて、どうやって中国へ戻れるのでしょう。誰がどのようにパスポートを認めるのでしょう。知らないことばかりです。

 

その中国からの日本での出産が再び増え出したのが2010年代で、一人っ子政策も廃止される動きになり、また高学歴・富裕層の人たちが日本で働くようになった大きな変化がありました。

わずか10年ほどで「特権的な中国籍の人」の出産に変化したのでした。

 

共産主義か資本主義かなんてイデオロギーにはあまり差がなく、結局は政治家で居続けることで多大な利益と権力を得ることが目的になっているシステムが、どの国にもあるというだけですね。

そして時には非合法と合法のグレーゾーンを誰かの利益のために作り出して、「国境線」を融通しているのが現実なのだとしだいに感じられるようになりました。

 

最近は、中国の人の出産が減り、圧倒的にベトナムの人の出産が増えてました。

80年代のインドシナ難民として日本に定住し、日本で生活をしている方々の子どもの世代が出産する時代になりました。

そういう方は身のこなしも「日本人」なので言われないとわからないほどですが、最近は研修制度なのかそれとも別のルートでの来日か、まだ日本語もおぼつかない方々の出産が増えました。

 

その次は人口がどんどんと増えているインドネシアになるのでしょうか?

余剰人口を出稼ぎさせて外貨を稼ぎたい国の思惑と、それを受け入れることで利益がある側のルートがいつの間にか出来上がりますからね。

 

 

*一世紀後に思いを馳せる*

 

わずか30数年ですが、これだけ国境を超えて日本で暮らす人が増え国籍を超えて子どもが生まれるようになったのも驚異的に変化する時代だったと思い返しています。

 

無事に退院される時には、どの新生児にも「幸せな人生になりますように」と祈りながら見送っています。

それなのに生まれてわずか十数年の青年たちを犠牲者や加害者にしてしまったことは、どうしたら良かったのでしょう。

 

「幸せな人生」というのは、生まれた一人一人が大事にされ、人口を増やす政策を考えたのであれば一人一人に対して責任を持つ社会に生きることができるあたりでしょうか。

 

人を単に労働力としてとらえるような国だったり、そのために増やしたり減らしたりするような国にしてはいけない。ましてやその存在さえ認めないような非人道的なことは許されることがないようにしなければいけない。

 

理想論のようですが、あの「人類の為」へと進歩した一世紀前の人たちのおかげでその理想を現代の私は享受できているのですから、求める気持ちを捨ててはいけないのかもしれませんね。

正しさを求めるというよりは、現実を知り葛藤し続ける、そんな感じでしょうか。

 

 

20代の頃に初めて東南アジアで暮らして感じたあの頑丈なカプセルの内と外が、30~40年後にこのような時代へとつながったのだと思いながらあの事件のニュースを追っていました。

 

 

 

 

 

 

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