水のあれこれ 365 犬上川の水争いと犬上川ダム

地図で偶然見つけた「三川分水公園」で訪ねた犬上川流域ですが、滋賀県の「地域水利への誇り‥‥犬上川流域」の「水争いの歴史」という資料がありました。

 

右岸側で見つけた「ニノ井堰」の歴史と、左岸側で見つけた「一ノ堰幹線水路」の歴史がわかるものでした。

 

◆犬上川の水争

犬上川の地理的条件

 犬上川は鈴鹿山中に源を発し、多賀町甲良町を通過しながら、彦根市で琵琶湖に注いでいます。

 河川延長は27.3kmと比較的短く、流域面積は105.3㎢と狭い状況です。その上、鈴鹿山系は保水力の乏しい石灰岩質であり、流域の樹木の生育状況が弱く、流路も急勾配なため、流域の変動が大きく、洪水や干ばつが起こりやすい地形となっています。この地形条件のために、安定した水を得にくいこの地域では用水をめぐる争いが絶えませんでした。

(強調は引用者による)

水の豊かな琵琶湖周辺というイメージでしたが、専門的に表現するとこういう状況なのですね。

 

一ノ井堰とニノ井堰の水争い

 犬上川には、現甲良町金星付近の一ノ堰を最上流の井堰として、そこから下流に向かってニノ井堰、三ノ井堰、四ノ井堰が設けられていました。

 このうち一ノ井堰とニノ井堰は、それぞれ広い範囲の耕地をかんがいしていました。近世の徳川時代、一ノ井堰から取水された水は、すぐに3つの川筋に分かれて、旧17村の約1,600戸、約1,000町歩の面積を潤していました。

 一方でニノ井は、一ノ井堰の余水漏水の上水と、底樋(伏樋)によって集水した浸透水(底水)にほぼ依存しており、大門池のわずかな貯水と合わせて、旧3村の約300戸の133町歩のかんがいを担っていました。

 一ノ井堰とニノ井堰が、それぞれ自らの取水量を確保することは、各関係集落にとっては死活問題であり、両井堰の間で、たびたび争いが起こりました。

 17世紀から18世紀にかけて、元々、一ノ井堰の開け閉めは、水量に応じて自由に行なって良いとされていました。しかし、下流へと水を流すために、一ノ井堰を開けたニノ井の者を、一ノ井側が攻撃したり拘束したりすることが何度か起こりました。さらに、一ノ井側が下流への漏れ水を防ぐために、砂や石を盛るなどの河川に工作をすることもありました。そのたびに、ニノ井側が奉行所へ訴え、一ノ井に処分が下されました。

 

堰止めと井落とし

 18世紀になると、水利紛争がたびたび起こるようになりました。一ノ井堰側は、工作をしてはいけないとされていた一ノ井堰の外、つまり犬上川の公共域で、勝手に深掘りを行いました。これに怒ったニノ井側が井堰に押し寄せて、これを落とし増田。今度は、ニノ井側が奉行所から叱責を受けて、謝罪文を書かされることになりました。

 これ以降も、慣行を無視して井堰を強化する「堰止め」や、対抗して井堰を破壊する「井堰落とし」が明治、大正、昭和の時代になっても続き、闘争は強化していきました。

 

 

*「犬上川ダムと金屋頭首工」*

 

その1932(昭和7)年の「最後の水利紛争」から犬上川ダムが完成するまでの歴史が書かれていました。

 

最後の水利紛争

 昭和7年の6月から7月にかけて降った大雨によって、一ノ井堰の一部が決壊認め、一ノ井堰の復旧工事が着手されました。

 一ノ井は、過去の明治・大正にかけて、同様の状況で違法工事を行なっており、今回もその兆候が一部で見られたとして、ニノ井側の70人が現場に急行し、河原へ下り、竹槍を振りかざして、石合戦を展開しました。さらに、土を運搬するトロッコのレールを、川に投げ込んで引き揚げました。

 他方の一ノ井側も、数百人を集めて工事を続行しました。ニノ井側も数百人が集結し、再び竹槍を振りかざした石合戦となりました。夜を迎えて警官約200人が出動し、事態の鎮静にあたりました。

大雨で堤防が決壊し、さらにその年は大干ばつとなったための水争いだったのでしょうか。

私の世代でも大昔のような話でピンとこないのですが、両親の世代だと子どもの頃はまだこんな状況だったのですね。

 

 

ダム建設による解決

 この騒動から数日が経ち、一ノ井、ニノ井の役員数名や多賀・甲良の両村長などが、県知事以下各係官立ち会いのもとで会談する場が持たれました。

 この紛争の抜本的な解決策として、前年から調査が始められていた犬上川沿岸農業水利事業によって、犬上川におけるダムの建設や頭首工の分水法などが明らかになりました。騒動を機に、地元と県は争いを根絶するためには、水不足の原因を取り除くほか無いことを確認しました。

 

ダムと頭首工の建設

 昭和7年にいち早く着工した金屋頭首工は、昭和9年に完成しました。翌10年には幹線水路も完工し、昭和11年に使用が開始されました。犬上川の騒動の直接の原因となった水配分の問題を解消するため、一ノ井、ニノ井の反別、石高に応じて、用水配分量をおおむね8:2に確定し、その割合に応じて頭首工の左右に水門を設けました。昭和14年の大干ばつでは、他地区が用水に苦労し、争いも起きていましたが、この地域はそのような争いと無縁であり、以降も水争いが起こることはありませんでした。

 昭和9年には、当時としては最大の農業用ダムとなる、犬上川ダムの建設に着工しましたが、太平洋戦争によって進捗が遅れ、完成を見たのは、計画から遅れること9年後の昭和21年でした。その後、末端部分の水路改修や排水路改修、堰の改良が行われ、昭和32年にすべての事業が完成し、流域の全地域で用水が確保されて、二毛作も可能となりました

(強調は引用者による)

 

 

ここまで読んで、あの三川分水公園があったあたりがかつての金屋頭首工があった場所で、「三川」とは一ノ井、ニノ井への水路と犬上川の意味だとつながりました。

 

そしてあの1200年前から重要なかんがい施設だった大門池も、犬上ダムが完成した後は主に防火用水と使用されるようになったそうです。

 

 

犬上ダムが完成して「二毛作も可能になった」、そしてその7年後にはここを東海道新幹線が通過するようになった。

滋賀県に入ると麦畑が広がる美しい春の風景は、こうした長い長い水を得るための歴史があったことを知りました。

 

 

*おまけ*

川を挟んで水争いが繰り返された地域で、石碑にその歴史を書き残すのには数十年の歳月が必要だったのかもしれませんね。

 

 

 

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