水のあれこれ 366 1603年に付け替えられた芹川

夕闇が迫ってとうとう琵琶湖と対岸の比叡山が見えなくなると、眼下の川と室内灯が明るく美しい夜の新幹線を眺めていました。

 

2日目の朝はまた始発の新幹線を見るまで、眼下の川の水面を眺めていました。

水量が多い川です。私が眠っている間に、どれだけの水が琵琶湖に流れ込んだのでしょう。

そして琵琶湖の全周にこうした川や用水路が流れ込んでいるというのに、流出河川は瀬田川の一本というのは改めてすごい地形だと思いました。

 

旭森公園の説明板を読んで初めてこの川の名前を知りました。

 

彦根を通過する時にはなんとなく戦国時代を思い浮かべていましたが、そうか、彦根というのは「この芹川と前日歩いた犬上川が運んだ土や砂が堆積してできた平野」というとらえ方ができるのかと目から鱗でした。

 

 

*芹川の歴史*

 

現代の地図では、東側の山の合間から流れ出てきた芹川が多賀神社の西側でもう一本の川と合流します。残念ながら私の地図では最大限に拡大してもその支流の名前はわかりません。

 

そのあと新幹線の下をくぐり、しばらく北西へ流れると沼波という地域を流れます。

西側に小高い場所が島のようにあるので、もしかするとそこに流れがぶつかり氾濫原だったので「沼波」とついたのではないかと想像しました。

JR東海道本線近江鉄道をくぐるとそのあとは真っすぐ西へ琵琶湖へと流れ込みます。

 

琵琶湖周辺の流入河川は湖の近くでまっすぐ描かれていることが多いのですが、現代に入って干拓や治水のための整備事業によるものだろうと思っていました。

 

Wikipedia「芹川」の「地理」を読むと想像を超えた歴史がありました。

鈴鹿山脈北端の霊仙山(標高1,084m)を源とし、多賀町の山間部を南西に流れる。多賀大社付近で湖東平野に出ると共に北西へ流れを転じ、彦根市街地の南を潤しつつ琵琶湖へ注ぐ。

現在の彦根市内の流路は、彦根城の城下町建設に際して1603年(慶長8年)井伊直継が付け替えたもので、それ以前は現在の彦根市街を縦断して松原内湖に注いでいた。この付け替えによって城下町建設の用地が確保され、また芹川は城下町の南の防衛線となった。1634年(寛永十一年)には南側へ8間半(約15m)拡幅されている。付け替え以来、護岸のため芹川の両岸にはケヤキやエノキやサクラなどが植えられ、地元住民の散歩道や観光名所として親しまれている。

 

なんと17世紀初めに付け替えられていて、城下町にとって重要な意味があったとは。

ちょうど江戸時代の始まった年ですが、戦乱の世から江戸時代へ、どのような雰囲気がこの地にあったのでしょう。

 

そして鶴岡の赤川の付け替えが1602年ですから、この時代の「川の付け替え」の意味やその歴史もまた興味深いものですね。

 

やはり、琵琶湖の沿岸に描かれる全ての水色の線の歴史を歩いてみたくなりました。

困りましたね。

 

 

*おまけ*

 

松原内湖が消滅した時代を確認するためにWikipediaの「彦根市」の「歴史」を読み始めたところ、「7世紀前半(奈良時代前期):行基が平流山(へいるやま。現荒神山)山頂に奥山寺を開いたといわれる」と書かれているのを見つけました。

ホテルの窓から見えていた島のようなあの荒神山に、行基さんゆかりのお寺があったとは。

それにしても瀬田川の改修にも携わり、全国各地を訪ねて経世済民と公共事業を実践しようと行基さんを動かしたものはなんだったのでしょう。

 

その時代から現代は進歩したのか、それとも退化したのでしょうか。

 

 

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