地図で見つけた場所を訪ね歩くようになって、平面地図からだいぶ実際の高低差を想像できるようになりました。
ところが、Wikipediaの「奈良盆地」の地形図のようにほとんど高低差がないような場所に扇の骨のように大和川水系の川が流れ、さらに無数のため池と用水路が張り巡らされています。
地図の水色の線や地名からその地形を想像してみるのですが、実際に歩いてみるとわずかな高低差なのに滞りなく水を高きから低きへと流し、水田が広がっていることにすごいと圧倒されます。
*「今里の浜」*
鍵遺跡から石見駅まで歩こうと地図を眺めていたら、途中に「今里の浜」という史跡があるようです。
寺川の右岸側で、なぜこんな盆地の真ん中に「浜」があるのでしょう。
そこを目指してみました。
鍵遺跡から西へ、おそらく水田跡と思われる比較的新しい住宅地を過ぎると、灰色の屋根瓦の神社と池のような場所が見えてきました。
その先はゆるやかに寺川へ向かって上り坂になっています。
池のような場所のそばに案内板がありました。
寺川筋今里問屋場(てらかわすじいまざととんやば)
今里問屋場は、田原本と主要な交通路「中街道」で結ばれた物資の集散地として栄え、田原本の外港として、大きな役割を果たしていました。問屋場は、石見村領字庵ノロ(三宅町大字石見)にあり、寺川筋の東側、今里橋を通る道筋の南側に位置します。当時、今里村(田原本町大字今里)の庄兵衛が問屋を営んでいたことが知られています。
「寺川筋今里問屋場絵図」は、江戸時代に田原本五千石を領した平野氏の陣屋町の発展を考えるうえで極めて重要で、町の有形文化財に指定されています。この絵図には、荷揚場や土蔵、牛馬をつなぐ杭が描かれ、近世の「浜」の様子を詳細に知ることができます。
地図に描かれていた長細い水色は、寺川からの運河と船着場のような場所だったのでしょうか。
奈良盆地の水色の線は、農業用水路だけでなく物流のための「道」でもあるようです。
そうそう、「大字田原本には2500年の悠久の歴史がある」場所でした。
ゆるやかな上り坂の先は寺川の右岸で、堤防と寺川が流れていく先も平らに見えます。
はるかに生駒山地でしょうか、山並みが見えました。ほんと、奈良盆地の景色はダイナミックです。
*大正時代の新池へ*
寺川左岸へと小さな橋をわたると、灰色の瓦屋根に白壁と板壁が組み合わされた古い家々がありました。近世の街にタイムスリップしたような錯覚に陥りましたが、自動車が通過してハッと現実に戻りました。
その先に水量の多い水路があって、それをたどるとため池に出るはずです。地図には名前がないため池でした。
ため池の東側の端に古い大きな地蔵堂が建っていました。
そこからため池の北側に沿って遊歩道があり、桜の終わりの季節でしたがまだまだ美しい風景です。遊歩道に沿って花壇が続いていて、どなたかが心を込めて手入れされているのがわかるような美しい花々です。
遊歩道が終わるあたりに、ため池を眺められるように東屋がありました。
休憩させてもらおうと東屋に腰掛けると、ため池の向こうに奈良盆地の東側の山並みが見えます。
予想をはるかに超えた美しいため池でした。すぐ西側が少し低くなり、水田地帯になっています。
ため池の名前は何だろうとあたりを見渡すと住宅地図があり、「新池」と書かれていました。
何やら古い大きな石碑があります。
旧字体で「新池開墾⚪︎碑」と彫られているのですが、「⚪︎」は読めませんでした。
今茲大正六年九月磯城郡三宅村石見里人来請曰弊里⚪︎有貯水池狭小未足防旱往歳村長松村貞夫⚪︎里人別使開新池衆議乃決於是區町長千田富太郎専督其事以明治三十一年四月竣工今歳旱害他邑皆乏水我村獨得免其害矣願利石以示後裔幸先生記之乃叙其言系之以銘曰
碧波洋洋 浸彼稻田 稻田蒼蒼 灌漑斯全 旱魃不虐 茲楽有年 永世勿忘 我命繋焉
黄華越智宣哲 撰
明治から大正時代の方々はほんと、難しい字体や文章を書かれますね。
なんとなくしか読めないのですが、このため池のために尽力を尽くされた人たちを讃え、かつては旱魃や水争いがあったことや、この青々と水を湛えた池からの水が美しい田んぼにしていることを永劫忘れてはならないというようなことでしょうか。
*鏡作神社と条里の森*
石見駅へ向かうのに、新池の北西にある神社を通ることにしました。保津の環濠集落の近くにもあった鏡作(かがみづくり)神社です。
鎮守の森を見ながら水路沿いに歩くと、水路の上に小さなお社が鎮座している場所がありました。水の神様でしょうか。
また灰色の瓦屋根に木壁や白壁の美しい家々があり、木の香りが漂う集落に入りました。
鎮守の森を背景に、白い参道の奥にある社殿はなんとも美しい神社で、思わず写真を撮らせてもらいました。
条里の森
条里制は、古代の土地区画制で、律令制が完成された奈良時代に整備されたと考えられています。
東西・南北各六町(約六五〇メートル)の間隔で土地を「里」とよぶ方格に区画し、東西列を条、南北列を里と数え、さらにこの一里を三六の方一町の「坪」に細分し、何条何里何坪と呼んでいました。
その条里の界線の交点付近に緑の森をつくり、大和の風土の一つをしのぶとともに、、都市環境にうるおいを与えるのが「条里の森」であります。
県内各地に、この条里の森があるようです。
地図ではそれほど迷いそうにはない場所に見えたのですが、ふと道に迷いそうな集落だなあと思って歩いていると理由が書かれていました。
迷路
集落内の通路は「袋小路」L型・T型・⚪︎型(*パソコンでは転換できず)等の箇所が多くて、直進するには極めて不便であるが、、昔は外敵との交戦の難を逃れるのに好都合であった。
この北側は、寺川の氾濫原かと思う水田地帯のようですから、微高地にこうした集落ができているのが奈良盆地の特徴でしょうか。
近鉄橿原線の車窓から見えていた水田地帯にはこんな美しく落ち着いた街があり、歩くだけで弥生時代から現代まで水の歴史も知ることができる場所でした。
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