飛鳥京からはまっすぐ北へ水路沿いに歩くことにしました。
周囲をなだらかな丘陵に囲まれたこのあたりは、まるで奈良盆地を縮小したかのような雰囲気です。
畦道はゆるやかに下り坂になり、途中、「水路につき全面通行禁止」「大和平野土地改良区」の表示がありました。
黄色い土の歩道の横に同じくらいの幅のコンクリートの道が続いています。コンクリート部分の下に通っているのはもしかして吉野川東西用水で、大淀町の吉野川分水頭首工で取水された水が、近鉄葛駅の近くで東西へ分水されてその東部幹線水路が飛鳥の地を潤し、あの三輪の先の山辺の道に沿った地域へと流れているのでしょうか。
飛鳥川の小さな流れでは、とても安定した農業用水も生活用水も得られなさそうです。
*天香山と天岩戸神社*
まっすぐ北へ畦道を歩いた先に見える小高い山が大和三山の一つ天香山で、その麓に天岩戸(あまのいわと)神社があるようです。
南浦町の細い路地を進むと、山の端に小さな石の鳥居があり参道がありました。
天香山南嶺、南浦集落のほぼ中心に南面して鎮座し、天照大神を祀る。
「古事記」「日本書紀」の神話にみられる天照大神の岩戸がくれされた所と称し、今もなお巨石四個があって、大神の幽居した所と伝える岩穴を御神体とし神殿はなく、拝所のみという古代人の原始的な祭祀形態を残している。
玉垣内には、真竹が自生するが、これを往古より七本竹と称し、毎年七本ずつ生え変わると伝えられている。
山を背景にして小さな古い拝所の建物がある質素な風景ですが、静寂に心があらわれるような場所でした。
天香山の近くの田んぼは赤いトラクターが田おこし中で、水路の美しい水を眺めながらさらに北へと向かいました。
*藤原宮跡へ*
藤原宮資料室を西へ曲がると「高所寺水利組合」と表示された大きなため池があり、その向こうに畝傍山が見えます。
ここから藤原京跡までまた広い水田地帯で、風景をさえぎるものがないので県立奈良医科大学病院まで見えました。
ため池からの水路沿いの畦道を歩くと、濃い色のすみれが咲いていました。
風の音が聞こえるだけの田んぼを歩いていると、ここでも静寂を破る珍走団の音が聞こえ、また静寂に戻りました。
散策をする人が何人もいるのですが、広大ですからすれ違うこともほとんどなく、遠くに歩く人が見える感じです。
かつてはこうして皆歩いていたのでしょうけれど、ほんと歩く人が少なくなりました。
広い敷地の木陰に、案内板がありました。
藤原宮跡
藤原宮は、持統天皇8年(694)から和銅3年(710)まで持統・文武・元明天皇三代にわたる都でした。藤原宮はその中心部にあり、現在の皇居と国会議事堂、および霞ヶ関の官庁街とを一か所に集めたようなところです。大きさはおよそ900m四方、まわりを大垣(高い塀)と濠(ほり)で囲み、各面に三か所ずつ門が開きます。中には、天皇が住む内裏、政治や儀式を行う大極殿(だいごくでん)と朝堂(ちょうどう)院、そして役所の建物などが建ち並んでいました。
宮を取り囲む京は、東西・南北の道路によって碁盤目に区画した日本最初の中国式都城(とじょう)です。中には、皇族・貴族の邸宅、寺院のほか、市も設けられました。京の大きさは5.3km四方で、耳成山(みみなしやま)・天香具山(あまのかぐやま)・畝傍山(うねびやま)の大和三山が北と東西に位置する景勝の地を占め、「万葉集」にもこの地に関する歌が数多く収められています。
都が平城に遷った後、藤原宮、京は田園に変わり、以来1300年もの間、地中に埋もれていました。昭和9~18年(1934~43)の日本古文化研究所の発掘により、大極殿・朝堂院の位置や規模が明らかになりました。昭和41~44年(1966~69)には奈良県教育委員会が、それ以降は奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)が発掘調査を引き継ぎ、その結果、門や大垣、役所の一部などの様子がわかってきました。また、木簡をはじめ様々な遺物が出土し、これらはこの時代を解き明かす貴重な資料です。今後調査が進めばさらに多くの事実が明らかになるものと期待されます。
建物の跡を示す朱色の柱が点在しているだけの藤原宮跡ですが、ベンチに座っていると過去から現在へ、現在から過去へとさまざまな思いが浮かんできます。
かつて栄華を極めた場所が水田になった。しばらくその周囲の田んぼを眺めました。
この地でお米を作ってこられたのはどんな方々で、安定した水を得るための歴史はどんな感じだったのでしょう。
時の権力者の視点だけでなく川や農業の要である水路やため池の歴史がまとめられれば「歴史」の意味がもう少し違ってくるかもしれない。
風の音だけの静寂の中、そんなことを考えました。
朝、飛鳥駅からずっと歩いてきたのに、まだ13時前です。
もうひと頑張りして、耳成山まで歴史を歩くことにしましょう。
「米のあれこれ」まとめはこちら。