散歩をする 523 相模川右岸の水田地帯を新幹線を眺めながら歩く

4月中旬に奈良へ向かうとき、E席の車窓からその数日前に歩いた場所を見逃しませんでした。

田んぼの畦道が、堤防にぶつかる直前にくの字に曲がっている不思議な場所です。

そこに立って何本も東海道新幹線が通過するのを眺めたのですが、その散歩の記録がまだでした。

 

昨年末に高座渋谷から鶴ヶ峰駅の辺りの新幹線沿線を歩いたので、ほぼこれで多摩川から相模川まで新幹線の線路沿いを歩きました。

いよいよ相模川からさらに西へと新幹線沿いを歩きます。

 

2年前の春に高麗山のそばを歩いて河内川の平塚ポンプ所のそばにあるベンチに腰掛けて新幹線を眺めたあのあたりまで、相模川右岸は広大な水田地帯が続き何本も川や用水路を超えていきます。まあ新幹線だとものの1~2分で通過してしまうでしょうか。

ぜひここを歩いてみようと出かけました。

 

どんな田んぼや街の歴史、そして風景があるでしょうか。

そしてどこからも新幹線眺め放題のわくわくする散歩になりそうです。

 

 

本厚木駅から大神へ*

 

東海道新幹線の通る地域は大神という地名で、相模川の堤防の近くに大神バス停があります。

そこまでは小田急本厚木駅から平塚行きのバスが通っているようです。

12時29分、平塚行きのバスはあっという間に満員になり出発しました。堤防沿いの道へと入り、しだいに畑が増え水路や分水路も見える旧街道のおもむきの道を進みます。

 

新幹線の車窓から眺めていた時には、相模川の堤防あたりから水田地帯までずっと平らなような気がしていましたが、実際に通ると相模川のすぐそばに細長く微高地が続いているように感じます。

そしてむしろ内陸へ入った場所の方が、少し低くなって水田になっているのでしょうか。

 

いつの間にか乗客は2~3人になり、大神バス停で下車しました。

交通量の多いバス通りを避けて一本西側の道へと入ると、目の前をさえぎるものがなくなり遠くに富士山がかすみながらもしっかりと見えました。

 

お寺のそばを過ぎると新幹線の高架橋です。静かに新幹線が通過していきました。

高架橋をくぐり、道なりに歩くと神社があるので立ち寄ってみました。

 

鎮守の森の桜が、春の真っ青な空に浮かんで見えます。青銅の屋根の美しい社殿です。

寄木(よりき)神社

御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)、別名(大国主命

 

御神徳

五穀豊穣の神と知られるほか「因幡の白兎」の伝説があるように医薬の神としても崇敬されている。

御由緒

平安時代に書かれた「三代実録」に貞観元年(八五九年)三月五日大神朝臣田村麿(おおかみあそんたむらまろ)が相模国大住郡の大領(だいりょう)として京都よりこの大神の地に下向し、当地大神郷に屋敷を構えたことを伝えている。一方この大神朝臣が氏族の遠祖を崇敬し祭祀したのが寄木神社の始まりであるといわれている。また同時に村名も大神郷とした。

社殿

安政元年(一八五四年)の大地震で社殿は破壊したが、安政四年九月一日再建、大正十二年(一九二三年)の関東大震災では社殿の一部が再度破損したが、同年に再建し現在に至る。境内には他に境内社として八坂神社・神明社がまつられている。

 

安政の大地震といえば、阿波国では200人以上の死者が出たり、東海から関東でも、突然湧水が出たり川の水が枯れたりと大地震の被害が多い時代でした。

 

いずれにしても、大神地区というのは古くからの街のようです。

御由緒を読んでいる間にも、100mほど離れたところから新幹線の走行音が静かに聞こえてきました。

 

 

*「相模川沿いの自然堤防」*

 

今までこの相模川下流の沿岸部には何があるのか知らないままでしたが、堤防のそばは氾濫原のような低地だと思い込んでいました。

実際にはやや高い場所が細長く続いています。

こういうのも「自然堤防」というのかなと思って検索すると、平塚博物館の説明がありました。

 

平塚の地形地質(4. 平塚・平野の地形)

相模川沿いの自然堤防

大神から田村にかけての相模川沿いには、市内で最も大規模な自然堤防が発達しています。この自然堤防は 300~500mの幅を持ち、ゆるやかなS字をしています。古くからある大神〜田村の集落はこの自然堤防上に位置しています。ここにはかつての街道(八王子街道:県道平塚厚木線)も走り、果樹園や畑地が広がっています。自然堤防に沿っては、旧河道や洪水から守るための堤防が何ヶ所かでみられます。この自然堤防の西側は相模川の氾濫原となり、水田地帯となっています。神田中学校西側から横内中学校西側にかけても、同規模の自然堤防が見られます。玉川は大山を源流とし、厚木市七沢を経て平塚市下島に流れ、農業用水として利用されてきましたが、大正十二年の関東大震災後はたびたび氾濫をするようになり、昭和19年に流路変更工事が行われ、新玉川として厚木市酒井で相模川に注ぐようになりました。かつ手の玉川の流路は、現在では吉際から上流に玉川緑道と名付けられて、生活道路として整備されています。

 

わずか10行ほどの説明ですが、あの歩いた場所の地理や歴史を知る手掛かりがたくさんある文章です。

 

もう一つ、「歴史探訪記」の「大神古戦場」という先人の記録があり、それによると武田信玄北条氏康が戦った1569年ごろにもすでに水田が広がっていたことがわかりました。

 

東海道新幹線が西へと相模川を渡ってすぐの数百メートルくらいの場所にある街、古い歴史があることがわかりました。

 

ところで当日撮った写真に、寄木神社の境内に平塚市「水準点」の標石がありました。

数字が苦手なので、ずっと避けているやり残したままの宿題を思い出しました。困りましたね。

 

 

さあ、いよいよあの広大な相模川右岸の水田地帯を歩きます。

 

 

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