川や用水路を訪ね歩くようになって、「世界かんがい施設遺産」というものがあることを初めて知りました。
耳にしたもののどのような歴史があるのかそのままにしていましたが、1950年に国際かんがい排水委員会が創設され、翌年日本も加盟したという古い歴史がありました。
「かんがい」だけでなく「排水」も大事ですからね。
2014年に「価値の高い灌漑設備を登録・表彰することを目的にかんがい施設遺産制度を創設」(Wikipedia)したそうです。
こうして記録されなければ埋もれていく歴史を正確に遺すことが行われ始めたのは、もしかすると20世紀に起こった大きな変化の一つと言えるかもしれないと、ふと思いました。
*かんがいの歴史が記録された案内板*
さて、帰宅してからの宿題にしていた倉吉川吉井水門ですが、当日撮った写真を見返していたら水門のそばの二つの案内板がありました。
岡山県指定史跡 倉吉川吉井水門
昭和34年3月27日指定
倉安川は倉田・倉益・倉富の三新田の灌漑と吉井川・旭川間の連絡のため、岡山藩主池田光政が津田永忠に命じてつくらせた延長約20kmに及ぶ水路です。延宝7年(1679)2月に起工、同年中に完成しています。
吉井水門は、吉井川からの取水口にあたります。吉井川の堤防に築かれた「一の水門」と、倉安川側の「二つの水門」の間の「高瀬廻し」と呼ばれる船だまりからなり、二つの水門によって水位差の調節を行い通船する閘門式の水門です。
船だまりは、出水時の船の待避や検問に使われました。
昭和48年からの坂根堰改修に伴い、水門としては使われていませんが、石垣や水門などの構造は当時のまま残されています。
確かに灰色の瓦屋根の小さな水門が道路を隔てて二つありました。そういう構造だったのですね。
そして坂根堰が着工されるまでは現役だったようです。
もう一つは世界かんがい施設遺産の案内板です。
「倉安川・百聞川かんがい排水施設群」倉安川吉井水門(令和元年九月四日登録)
江戸時代初期、人口増加による食糧難や度重なる凶作への対処が急務となった岡山藩では、児島湾一帯の大規模な新田開発計画を樹てた。(1657年)倉安川は、降雨量が少なくかんがい施設に依存せざるを得ない岡山平野において東の吉井川と西の旭川を結ぶという、流域を超えて「水を活かす」画期的な用水路であった。(1679年完成)
また、百聞川は、旭川の洪水を防ぐとともに、河口に独創的な遊水地と石樋(排水樋門)を組み合わせた、「水を制する」最先端の基幹的排水施設であった。こうして、倉安川と百聞川は、一体となって倉田新田・沖新田という2200haを超える大規模干拓を実現し、「豊穣の大地」を生み出し、食糧増産による地域農業の発展と自立的農家の育成等に極めて大きな役割を果たした。(1687年完成)
また、その取水口である倉安川吉井水門は、堅牢な花こう岩で築かれた現存する我が国最古の「閘門式水門」であり、「岡山県指定史跡」でもある。そして倉安川は運河としての役割も果たした。(1679年完成)
これらの施設群は、食料生産力の向上と農村の発展さらには農民の生活の安定に大きく寄与し、高い構想力と先端技術等は全国の同種施設群築造に、理論と実践両面で大きな影響を与えた。こうした施設群は、岡山が全国にそして世界に誇るべき歴史的・文化的遺産であり、令和元年9月4日(2019年)国際かんがい排水委員会(ICDC)によって、世界かんがい施設遺産として認定・登録された。令和元年は倉安川が開削されて、ちょうど340年目に該る。
吉井川右岸の用水路の水門ぐらいの認識で訪ねたのですが、百聞川や旭川とつながり、海側に広がる広大な干拓地にも重要な場所だったようです。
そして「現存する我が国最古の「閘門式水門」」だったとは。
列車の時刻に気を取られて先を急いだことは痛恨のミスでした。
こうして遺産として簡潔明瞭な説明文があることで、あの地域の風景が全く違って見えてきました。
*おまけ*
ところでこの説明文中の「樹(た)てた」「該(あた)る」という使い方は、私は初めてでした。
ほんと、漢字の使い方ひとつとっても同じ時代を生きてきたのにと思うことが増えました。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。
「樋」についてのまとめはこちら。