散歩の2日目は2022年に訪ねた備中高松城の水攻め史跡公園の近くの用水路で知った湛井(たたい)十二ヶ郷用水の取水堰を訪ねます。
高梁川から備中高松城のある地域までは途中足守川が流れているというのに、その川を越えながら中世にはすでに用水路がひかれている地図を見て、いつか歩いてみたいと思っていました。
宿泊先の水島臨海工業地帯に近い駅から7時48分の水島鉄道に乗って倉敷駅へ向いました。通勤通学の時間帯で混んでいます。駅に着くと車掌さんが改札業務をするのに忙しそうでした。
昨日は気がつかなかったのですが、沿線はかつては田んぼだったのだろうと思われる四角い区間が多く畑と70年代ごろの住宅地が広がっていて、倉敷の白っぽい土に緑の大きな葉っぱが青々と育っていました。
あの葉っぱは見たことがあるけれどなんだったっけと考えていると、ごぼうを収穫していました。倉敷でごぼうを生産していたとは、ほんと知らないことばかりです。
そんなことを考えていると、他の車両が故障したとのことで列車が止まりました。これは倉敷駅からの伯備線も、総社駅からのバスも1時間ずつ計画変更かなと考えていると十数分で復旧し、無事に当初の計画通りの伯備線に乗ることができました。
昨年9月に東西用水酒津樋門からの八ヶ郷用水沿いに歩いた時に通った場所を、今度は伯備線の車窓から眺めることができました。
山陽新幹線の高架橋をくぐるとすぐに、高梁川と小田川の合流部のすぐ近くにある柳井原貯水池の堤防のあたりの改修工事が完了していました。
今までは写真を撮るのがためらわれていたのですが、列車内でのシャッター音にちょっと気が引けながらもここから合流部のあたりまで撮りました。2018年の豪雨以来、私の中でも何かひとくぎりついた感じです。
*総社駅から湛井用水取水堰まで歩く*
駅から堰までは2kmほどでしょうか。
分水路がいくつか駅のあたりを流れているようで、そのうちの1本を目指して歩き始めると大きな説明板のある建物がありました。「高梁川用水土地改良区」の事務所で、「高梁川用水系統図」の大きな図がありました。
喉から手が出るほど欲しかった高梁川沿いの堰と用水路の地図です。
受益地の概要
高梁川用水土地改良区は、岡山県新見市に建設された小坂部川ダムの管理を行っています。
ダムの受益池は岡山県南部の総社市、岡山市、倉敷市、早島町に広がる約7,000haの県下最大の稲作地帯です。
小坂部川ダムから放流された農業用水は、総社市伊尻野の高梁川合同堰から湛井十二ヶ郷用水と上原井領用水、倉敷市酒津の笠井堰から東西用水、また、最下流の潮止堰から上成乙島用水として取水されています。
帰宅したらゆっくり眺めようと写真だけ撮っておいた地図ですが、今じっくりと見るとピンク色に描かれた受益地は、私がこの二日目に歩こうと計画していた地域と重なっていました。
まあ、わけもわからないままに水路をたどってもきちんと歴史に導かれる、という感じでしょうか。
ここからは緩やかな上り坂を用水路沿いに歩きました。
途中、ヒジャブをかぶった東南アジアの女性とすれ違いました。用水路を訪ね歩くと、必ずどこでも海外から働きに来られた方を見かける時代になりました。
住宅地を流れる湛井用水から、周囲に水田が増えてきました。5月初旬、この辺りではまだ代掻き前でした。
ふとどこからかパンを焼く良い香りが漂ってきてお腹がすきました。歩くほどに良い香りが強くなっていきます。パン屋さんだとしたらよほど大きなお店かと思っていると、遠目に工場が見えてきました。ここから数百メートル先の工場だったようです。
しだいに山が近づき、田んぼや倉が整然とある集落に入りました。畑のそばには花が美しく、祖父母の家を懐かしく思い出しました、
小さな水路にも高梁川からの水が美しく、途中、水路の掃除をされている方もいらっしゃいました。
川風が強くなってきました。もう少しで堰です。
右手の山のそばに建つ家々が一段高い場所になり、堤防が見えて用水路はその先へと見えなくなりました。
迂回して堤防の方へと歩くと、国道180号線のそばに「湛井堰記念碑」が建つ小さな公園がありました。
この地にある十二箇郷用水取入口は、湛井堰とよばれ、往古はここより約五百メートル下流の六本柳にあったが、高梁川流路の西方移動のため、千百八十二年(寿永元年)備中妹尾の豪族、妹尾太郎兼廉がこの湛井の地に井堰を構築したとされている。この用水掛りは十二箇郷六十八ヶ村(現、三市二村)、約五千ヘクタールに及び、豊富な水量に恵まれて未だ干ばつを知らず、その恩恵に感謝の意を表し、ここに開堰八百年を記念して碑を建立す。
昭和五十七年(一九八二年) 湛井十二箇郷組合
横断歩道を渡り川岸に近づくと上流の山々がすぐ近くに見え、広々とした河原をゆったりと流れる高梁川の美しい水面が見えました。
堰は、左岸側の川半分までに小さな頭首工があり、右岸側は昔ながらの石積みの堰のように見えました。
いろいろな取水堰があるものですね。しばらく惹き込まれるように水面を眺めました。
先ほどの小さな公園の前のバス停から総社駅行きのバスに乗るために戻ると、「水災溺死者之墓」と彫られた大きな石碑があるのに気づきました。
雨風に削られてよく読めなかったのですが、「明治二十六年」と彫られているのがわかりました。
高梁川改修工事のきっかけとなった明治時代の水害とつながりました。
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