今地図を見返しても、あの大賀博士顕彰碑がどのあたりだったのかもうわからないくらい、複雑に水路や田んぼが入り組んだ地域です。
それでも山陽新幹線の高架橋を目印に歩いたので、次の目的地の犬養木堂記念館まで道に迷わずにすみました。
高架橋をくぐると、三十番神社の古い社殿がありました。「川入」地区の氏神様のようですが、水の神様だろうかと想像していましたが御由緒はありません。そばに「地水神」と彫られた古い石碑がありました。
その先の静かな住宅地の中に、犬養木堂記念館があります。
犬養木堂生家
明治二十三年(一八九〇)三十六歳で衆議院議員に初当選し、以降、憲政擁護運動の先頭にたった。
昭和六年(一九三一)内閣総理大臣となったが、翌年の五月十五日首相官邸において凶徒に襲われ、「話せばわかる」の言葉を最後に志半ばにして没した。
犬養家は、代々庄屋や藩の要職を勤めた農家で、この生家は江戸時代前期に建てられたものである。この地方の近世民家の代表的なものとして価値が高く、国の重要文化財に指定されている。老朽化がはなはだしかったため、昭和五十四年(一九七九)解体復元したものである。
大賀博士顕彰碑のある田んぼを潤していた水路がぐいと西へと蛇行し、また東へと戻って流れているのがあの犬養木堂記念館の前を流れる美しい水路でした。
わずか数百メートルしか離れていない場所で、こんな形で大賀博士の思いと犬養元首相がつながるとは、ほんとうに知らないことばかりです。
2018年に訪ねた時は20代の頃から影響を受けた犬養道子さんのおじいちゃまのことを知る機会になりました。
今回はあの日(2022年7月8日)と状況はどう違うのか、政治家とは何をする人なのかの逡巡を抱えながら、もう一度館内を観ました。
平日にも関わらず、何人もの方が訪れていました。
屋敷林と美しい水路はあの日のままです。ふと流れてくる方向を振り返ると、静かに山陽新幹線が通過していきました。
*田んぼと水路をてくてくと庭瀬へ*
犬養木堂記念館の前を流れる水路は、ところどころに水門があり、流れを変えながら庭瀬のあの複雑な水路に囲まれた地域へと向かっています。
途中の水門に、水利組合の「番水日割り表」と「土用干し」の日程が張られていました。
祖父母もこうした水の管理を中心にした生活を送っていたのですね。
すぐ近くに足守川の堤防が近づいてきました。
2018年に庭瀬を少しだけ歩いた時には、この地域の水はこの足守川から取水したのだろうと思っていました。まさか、高梁川から川を越えて来た水だったとは。
そういえば2日目は朝、総社から湛井堰まで歩き、そして吉備津駅から川入まで歩いたのですでに1万3000歩、お腹も空きました。
地図を見ると近くにお店があるようで、古い農家の門をくぐったところにありました。
最近、あちこちにちょっと小洒落た「古民家」風がトレンドなのか、洗練された新しい雰囲気の「形にこだわった」ものが増えたのですが、むしろイメージだけでデザインしているかのように感じてしまうので私はどちらかというと落ち着かないのです。
でも今回はここでお昼を食べないと、午後のまだまだ続く無謀な干拓地の散歩に耐えられなさそうです。
お店に入って、想像と違いました。
なんだか祖父母の家に帰ってきた気持ちになりました。スタイリッシュすぎず、観光客のためではなく地元の人たちのための食事の場でした。
驚異的に変化した同じ半世紀の中で、うまく生活を変えてきたそんなことが伝わるお店でした。
奇をてらうことなく、毎日地元の人のために美味しい食事を作り生計をたてる、こうした市井の人の努力で社会というのはできているのだと。
なんだか口先だけ見てくれだけ儲けだけの昨今はやはり道を間違えているのではないか、美味しいご飯をいただきながらそんなちょっと小難しいことも考えてしまいました。
お店を出ると、庭瀬の水路が複雑に流れる住宅地です。
静かな静かな住宅地は、蔵のある古い伝統的な家と新しい家とほどよい感じです。
今までも、山陽本線の車窓から庭瀬の美しい水路が見えると釘付けになっていました。
そしていつか水路沿いを歩いてみたいと思っていた夢がかないました。
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