お腹も満たされて再び農家の門を出ると、まるでそこで生活しているような気持ちになって歩き始めました。
古い家の間に堀が見え始めました。朽ちたような城址に見えたのが撫川城でした。
ところが近くに行くと黒い立派な陣屋総門があって、美しい堀に囲まれた城址公園です。
撫川城跡
撫川城は泥沼の地に築かれた典型的な「沼城(ぬまじょう)」です。城の平面形状は、東西七十七メートル、南北五十七メートルの長方形を示し、幅十五メートルの濠がぐるりを巡っています。西半に高さ四メートル強の高石垣(野面(のづら)積み)と東半には土塁が現存しています。また北西隅には、櫓台と思われる石垣の張り出しが見られます。
この城は永禄二(一五五九)年に備中成羽城主三村家親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれています。備中高松の役(天正十(一五八二)年)には毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、当時の城主井上有景と秀吉軍との間で激戦が交わされました。その後は宇喜多の支配下になり廃城となりましたが、江戸時代に戸川氏の領するところとなりました。
戸川氏は安風(やすかぜ)(四代目)で断絶しますが、その弟達富(みちとみ)が撫川領分を継ぎ「庭瀬城」の本丸・二の丸に知行所を設けました。撫川城跡と庭瀬城跡とに呼び分けられていますが、もともとは一体の城だったのです。
なお、入り口に現存する門は、撫川知行所総門を明治になって現在地に移築したものと伝えられています。
昭和三十二(一九五七)年五月、県の史跡に指定されました。
地図を眺めていたときに、なぜこんなに近い場所に二つの城跡があるのかという疑問が解けました。
「宇喜多」家というと、早島にある「宇喜多堤起点之地」と湛井用水からの取水をあきらめ、酒津から八ヶ郷(はつかごう)用水を引いたことで名前が記憶に残りました。
今まで戦国期あたりは武将や生々しい戦いの歴史で学んできたのですが、こうして水路と新田開拓の歴史から紐解いていくと違った社会が見えてくるようです。
ちなみに「ぶかわじょう」だと思い込んでいたら、「なつかわじょう」と読むようです。
ほんと日本語は難しいですね。
*庭瀬城跡*
住宅地の中に広々とした水面をたたえた濠に囲まれて庭瀬城跡がありました。
庭瀬城跡
室町時代の末頃(約400年前)備中松山の三村元親は備前の固めとしてこの地に築城した。付近の地名から芝場(こうげ)城とも呼ばれる。一体は泥沼地でひじょうな難工事であった。その後宇喜多の重臣戸川肥後守達安がはいり(1602)古城を拡げ城下町をととのえた。
元禄12年(1699)板倉氏の居城となり明治を迎えた。自然石の石垣をめぐらした堀もよく残り、沼城の典型を示している。
寛政5年(1793)板倉勝喜は城内に清山神社を建て板倉氏中興の祖重昌、重矩父子を祭り歴代の遺品を収蔵した。(遺品は現在、吉備公民館に収蔵)
吉備の穴海の年表からすると、ここから江戸時代の大干拓へとなるようですが、どんな田んぼの風景や水路だったのでしょう。
*庭瀬城と大賀博士*
大きな外堀に囲まれた庭瀬城跡へ入ってすぐの清山神社のそばに、案内板がありました。
(明治一六年〜昭和四十年)(一八八三〜一九六五)
植物学者 吉備町名誉町民
岡山中学校 一高 東大植物学科卒業
第八高等学校教授を経て南満州鉄道株式会社教育所に勤め普蘭店から古代蓮の実を採集発芽に成功、理学博士となる。
帰国後、昭和二七年(一九五二)千葉県検見川の泥炭層から約2000年前の古蓮実を発掘その発芽に成功。
この蓮を大賀ハスと命名されました。岡山市後楽園に保存植栽されています。
時あたかも岡山城築城四百年に当たり、庭瀬城址保存会・吉備地区地域活性化推進実行委員会が連携し、この濠堀に大賀ハスを先生のふるさとに開花させることにしました。淡紅色の花ビラが緑の葉の間にゆらぎ訪れる人々の目を楽しませてくれることを願っております。
先生の言葉 蓮は平和の象徴なり
静かな堀と住宅地の向こうに、庭瀬城の外堀が見えています。
大賀博士の没後こうしてあちこちに大賀ハスと「蓮は平和の象徴なり」の言葉が広がっていったことに、ヨハネの福音書の「一粒の麦」のたとえを思い出したのですが使い方は合っているでしょうか。
今回の計画の段階では全く考えてもいなかった、大賀ハスと大賀博士の歴史へといざなわれた散歩になりました。
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