行間を読む 218 混乱と混沌とした葛藤の時代に次の希望が生まれる

犬養木堂記念館から庭瀬へ歩いた時の散歩のメモにこんなことを書き残していました。

お昼ご飯を待っている間に大賀博士を検索して見つけたのか、もう4ヶ月前のことで記憶が曖昧になっています。

 

大賀一郎博士庭瀬出身、チフス

軍事行動に反対の意志

庭瀬川入で生まれた

妻がスミレ図譜を制作

当麻寺

最初の2行は、Wikipediaの「大賀一郎博士」からでしょうか。

チフス」から、その60年ほど後に生まれた子どもたちの母子手帳には種痘や百日咳や腸チフス・パラチフス、そして当時世界中で求められていたポリオの接種記録が残り、それらの疾患で学業を断念することが過去になりつつあった時代だったのだと改めて思い出しました。

 

そして「軍事行動に反対の意志」が、「検見川発掘日記」の行間にあったとは。

 

「妻がスミレの図譜を制作」はどの資料だったのだろうと検索してみましたが、もう見つかりません。夫は蓮、妻はスミレとお二人で「植物の持つ特性を変えない」科学的な手法の絵図に人生を費やしたのでしょうか。

 

当麻寺(たいまでら)といえば、2023年に吉野川分水西部幹線水路を訪ねた時にそばを歩きました。どんな関係があったのでしょう。検索すると府中市にある石碑を紹介した「蓮博士 大賀一郎先生は戦災にあい」(Monumentというサイト)によれば、当麻寺に伝わる曼荼羅を研究されたようです。

 

 

*大賀博士が眠る多摩霊園*

 

この数行のメモから、また大賀博士の人となりをもう少し知りたくなって検索していたところ「歴史が眠る多摩霊園」に出会いました。

大賀一郎 おおがいちろう 1883.4.28(明治16)~1965.6.15(昭和40)

大正・昭和期の植物学者

 

 岡山県賀陽郡庭瀬村(岡山市庭瀬)出身。農家の長男として生まれる。子供の頃より神社の池に咲いているハスに興味を持つ。学生時代に内村鑑三(8-1-16-29)の無教会主義に影響を受けキリスト教に関心を示し、同志社系の日本組合岡山基督教会で洗礼を受けた。

 第一高等学校に進学し上京すると、内村の聖書研究会に毎週日曜日に通った。内村に大学進学の相談をしたところ、「君はよく僕にハスの話をしてくれたじゃないか。ハスは、我々人間がどんなに知恵を絞っても決して作り出すことはできない。神様のみが創れるものだ。神様の作りたもう植物を勉強したらどうだろう」と助言をいただき、東京帝国大学理科大学植物学科に進学した。1909(M42)卒業。大学院に進み、藤井健次郎に師事、植物細胞学を専攻し、ハスについての研究を本格的に始める。この頃、一緒に教会学校の教師をしていたうた子と結婚。

 '10第八高等学校生物学講師となり名古屋に移る。翌年教授となった。自宅にて聖書研究会を開き伝道活動も行った。'17(T16)南満州鉄道中央研究所(満鉄調査部)植物班主任として入社し満州の大連に赴く。中国東北地方の普蘭店から出土した古ハスの種子を研究。このハスは満州の約300~500年前のものとされ、発芽させて花を咲かせることに成功したことにより、ハスが他の植物に比べて長命だと証明した。これを元に、'27(S2)「南満州普蘭店附近の泥炭地に埋没し今尚生存せる古蓮實に関する研究」(古ハスの果実の研究)の論文を発表し理学博士を母校から受けた。

 満州事変のあおりを受け、'32軍部への抗議として退社し東京に戻る。東京女子大学、東京農林専門学校、関東学院大学で講師を務めた。東京大空襲で家を失って以降は、多摩霊園がある北多摩郡府中町東京都府中市)に移り住んだ。

 戦後、'51(S26)千葉県滑川出土(約1千年前)と検見川(けみがわ)出土(約2千年前)の泥炭層から発見された古代ハスの種子の発芽実験を行う。千葉市東京大学検見川厚生農場内の落合遺跡の約2千年前の泥炭層から出土したハスの発芽に成功。'52ハスの花を開花させ「大賀ハス」と名づけられた。'54千葉県の天然記念物に指定され、大賀蓮発掘記念碑も建設された。この開花は海外でも話題となり、米国写真報道誌「ライフ」でも特集された。

 以降、ハス博士と称され、各地でのハス移植などにも参加する一方、ハス糸で織ったと伝承された織物、それに関する工芸美術品の研究に及び、古文化財の自然科学的な方法による研究の先駆けとなった。主な著書に、『ハスを語る』(1954)、『ハス』(1960)、『ハスと共に六十年』(1965)がある。植物に関する翻訳や共著も残している。'64病で自宅にて倒れ、翌年東大病院にて逝去。享年82歳。告別式は東京と郷里の岡山県岡山市で挙行された。

 没後、'67追悼文集『蓮ハ平和の象徴也 大賀一郎博士を偲ぶ』が出された。また府中市に蔵書・資料が寄贈され、新中央図書館に大賀文庫が設置された。

 

 

ああ、あの国分寺崖線からの湧水が豊かな野川のそばにある多摩霊園に眠っていらっしゃったとは。

 

 

*1950年代から60年代の混沌とした社会に希望の光*

 

明治から大正昭和へと、社会の狂気からふと目を覚ましたら、自分がしてきたことも見て来たことも、何が現実なのかわからなくなる。昨日まで正しいことと信じていたことが、ことごとく覆される

 

戦後の復興期と活気ある時代のように伝えられることが多いけれど、実際には1950年代から60年代初めというのは市民の心はなかなか混迷を抜けだせない時代だったのですね。

 

そんな時に千年、二千年の時を超えて咲いた蓮の花に、当時の人たちは何を思ったのでしょう。

私だったら「人間なんてちっぽけな存在」と思ったかもしれません。

 

それから半世紀、自己万能感が強い人が増え実経済や政治を動かすシュールな社会になったのはなぜだろう、人を蹴落としてまでお金儲けや見てくれ口先ばかりの社会になったのはなぜだろうと思っていたら、社会の狂気の理由が見え、再び「白を黒に、黒を白に」の混沌とした社会になりました。

 

こんな時にこそ、人は普遍的なことに新たに気づいて進歩していくのかもしれませんね。

 

蓮は平和の象徴であり、普遍性の象徴のような気がしてきました。

 

 

それにしても地図で見つけた「川入」を歩いてみたいと訪ねたら、思いがけない歴史につながりました。

 

 

 

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