足守川の右岸から左岸へ渡るとじきに、おそらく六間川だと思われる川を超えます。「おそらく」としか書けないのは、用水路や川は本当に複雑ですし、私の地図では最大限に拡大しても水路名や川の名前はわからないままです。
そして地図に描かれている、川につながる水色の線は必ずしも「上流から下流へ」と流れているわけではなく、取水されて逆向きに流れていることもあります。
こればかりは実際に現地で流れを確認しないと、どのような水路なのかわかりませんね。
ここからは六間川からの分水路に沿って、JR妹尾駅までもうひと頑張り水路をたどって歩きます。
さすがに初夏の陽気の暑さと、朝からずっと歩いているので疲れてぼっと歩いていたら、住宅地の中の自動販売機の上にゴジラがいて目が覚めました。ああ、びっくり。
さらに三本に分水される場所に来ました。真ん中の道が一番近道のようです。
計画では一番東側の道へ入って、そのまま足守川と笹ヶ瀬川が合流するあたりにある妙泉寺周辺の複雑な水路沿いから「古新田」を歩いてみようと思っていましたが、体力的に無理そうです。
広々とした水田地帯で、畦道には薄紫色の小さな花がたくさん咲いています。畦道がこんなに美しいとは。
誰も歩いていないので、私が通るたびに鳥たちが囀り警戒されました。すみません、驚かせてしまいました。
田おこし中のトラクターのあとをたくさんの白鷺や青鷺が追いかけています。
やはり母が言っていたように「さぎやかもは昔からいた」のでしょうか。なぜ私の幼少時の記憶にはない鳥たちなのでしょう。
そんなことを考えていたら、ちょっと足に痛みが出ました。
納屋のそばの石に腰掛けて休ませてもらって足を見たら、珍しくマメができて潰れていました。
ここからはまだ、公共交通機関がまったくない水田地帯をあと2kmぐらいは歩かなければいけません。
しばらく腰かけて、さえぎるものもない青空と田んぼを眺めました。
近くに小高い山がありますが、かつては遠浅の海に浮かぶ島だったのでしょう。
そしてこのあたりまで湛井十二ヶ郷用水をひき、少しずつ海を田んぼに変えていった。
気が遠くなるような歴史を思い返していたら、足の痛みなんて大したことがないように思えてきました。
ちょうど小学生や中学生の下校時間で、たくさんの子どもたちが用水路沿いに下校しています。中学生の自転車軍団に何度も追い越されました。
全国どこでも中学生の通学の風景は半世紀前と変わらないので、ふと自分もその中の一人のような錯覚に陥ることがあるのですが、それもまた浦島太郎の気分のひとつでしょうか。
水田地帯から市街地へと入りました。
先ほどまでの平和でのどかな道が幻のように、自転車や自動車に追われ、足の痛みがまた感じられました。
地図では何本か主要な用水路が南北に通っているところですが、GPSで確認しながら歩いても微妙にずれて少し遠回りになりました。
やれやれと思っていると、山を少し削った住宅地のあたりから焼き板の壁やなまこ壁の昔の面影のある家々が増えました。
駅が近づくと蔵のある街並みが現れ、どうやら醤油の蔵のようです。
近くの壁に「もっと知りたいアイルランド」のポスターがあり、現代に引き戻されました。
そしてやり残した宿題を思い出しました。困りましたね。
JR妹尾駅から茶屋町駅へ向かう途中、早島のあたりは麦秋の風景でした。
*祖父母の田んぼはどうなっているのか*
散歩の二日目は、総社にある湛井堰から偶然、湛井十二ヶ郷用水の受益地を歩く充実の散歩になりました。
そしてこの日の最後の目的が、茶屋町駅から倉敷駅への路線バスに乗ることでした。
以前何気なく地図を眺めていたら、この路線がかつての祖父母の田んぼのそばを通ることがわかりました。
1990年代ごろに、確か道路拡張のために田んぼの一部を手放したらしいことを聞いた記憶があります。倉敷駅から徒歩で十数分ぐらいでもまだまだ田んぼが広がっていたのが、どんどんと住宅地へと変わり始めました。
時代の変化なので仕方がないかとそのままにしていましたが、パソコンをMacに変えた時に、ふと地図を航空写真に切り替えてみて愕然としました。
祖父母の田んぼと用水路のそばで遊んだ記憶は、もう二度と再現できない風景になってしまったようです。
GPSで確認しながらその場所を見逃すまいと車窓に集中していましたが、あの広々とした田んぼは跡形もなくなり裏山にまでぎっしりと住宅が立ち並ぶ風景が見え始め、幼少の頃に遊んだ祖父母の家と田んぼはどのあたりかでさえ全くわかりませんでした。
そこからは視線を落として倉敷駅に到着し、散歩の2日目が終わりました。
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