行間を読む 219 水島灘の福田新田と古新田

全国津々浦々の整然とした田んぼや水を訪ね歩くようになって、そこにはいつも掃き清められた神社があり、どんなに小さな神社でも老若男女関係なく静かに祈る方々がいらっしゃることを知りました。

理不尽さに謙虚になれる場、とでもいうのでしょうか。

 

参道を掃除してくれた翁への感謝の石碑に出会い、この地域の生活を垣間見たように思えました。

 

さて、今回の散歩の最終日はこの由加神社から300mほど歩いたところにある福田公園に向かい、福田町の古新田地区から北畝の福田神社まで歩く予定でした。

福田公園のため池のそばのベンチに腰かけて美しい水面を眺めていたら、初夏の暑さに3日間の疲れが出てもう歩く気力がなくなりました。

このままバスに乗って倉敷へ戻り、岡山でお昼ご飯をゆっくり食べて帰ることにしましょう。

いつも無謀な計画ですからね。

 

 

*福田新田から福田古新田へ*

 

バスに乗り北畝のあたりを通過する時に、「きたせ」とアナウンスが聞こえたような気がしました。「北畝」は「きたうね」ではなく、「きたせ」と呼ぶようです。

 

中畝も「なかせ」だということが、Wikipedidaの「東塚」を読んでわかりました。そしてなぜこのあたりに斜めの区画と正方形の区画がはっきりと分かれているのか、その歴史につながりました。

 

当地はかつては海域(水島灘)であった。高梁川が中世後期以降順次行われていった干拓により流路・河口部が南下していき、当地は東高梁川河口沖へ位置するように変化した。高梁川の沖積作用により干潟が生まれていき、享保年間に福田村西沖が干拓された(のちの福田古新田)。その西方にあたる東高梁川河口沖に高塚原と呼ばれる広大な干潟が生まれ、三角州となり、天明年間に児島郡柳田村の名主・汲五平が新田造成を岡山藩に申請し、許可を得て干拓を行ったが成功しなかった。その後、同郡味野村の野崎武左右衛門が藩命を受けて干拓を実行、嘉永5年に完成し954町7反3畝余りの新田が開墾された。その後福田新田と命名し、かつて福田村西方沖に干拓された同名の福田新田は福田古新田に改称された。広大な福田新田は6つに分けられ、北部は北畝、南西部は中畝、西南部は南畝、中東部は東塚、南東部は松江となった。このうち北部の北畝を除く地域が当地にあたる。呼松むら西方沖にあった王島という島は、福田新田開墾により、福田新田と陸続きとなった。現在、松江の南部にある王島山が、かつての王島である。

 

東側の山沿いにあるかなり斜めの区画が享保年間(1716〜1736年)の干拓による新田で、かつては福田新田と呼ばれていた。

一世紀半後の嘉永年間(1848〜1854年)に完成したのがその西側のやや斜めの区画で、福田新田と呼ばれるようになったので、享保年間に干拓された地域は「古新田」と呼ばれるようになった。

 

ちょっとスッキリしました。

無謀な計画をあきらめてバスに乗ったおかげで、この地域の不思議な区画の歴史を知るヒントをもらいました。

 

それにしてもあっさりと「干拓を行ったが成功しなかった」と書かれているのですが、長丁場の干拓にはどれだけの失敗の歴史が埋もれていることでしょうか。

 

バスの車窓からはところどころハッとする街並みが見えました。古くなっていくのに耐えられる何か、古くなればなるほどある何かを感じます。

 

そしてこの街で暮らしてきた祖父母のことも、そして両親のことも今になると知らないことばかりだった、そんなことを考えていたら倉敷駅に到着して今回の散歩が終わりました。

 

 

 

 

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