目的地の丸池公園へは吉祥寺駅からバスで杏林大学病院前で下車すると近いのですが、やはり三鷹台から久しぶりに玉川上水のそばを歩きたいと井の頭線の中で最終的に計画を決定しました。
私の散歩の原点の玉川上水ですからね。
三鷹台駅で下車すると、以前は工事中だったバス停とロータリーが神田川右岸の急斜面を削った場所に完成していました。
ここ数年、何度かこのあたりを歩いていますが、以前はどんな風景だったのかすでに記憶がありません。
駅から南西への狭い三鷹台駅前通りは、すぐに神田川の河岸段丘でけっこうな上り坂になりますが、歩道が広くなったので歩きやすくなりました。
初夏の暑さで少し歩くと汗が出て息が上がりそうな坂道ですが、途中、森のような玉川上水の流れがあります。
実際に歩いたことで、玉川上水と並行して神田川が流れる地形と歴史がだいぶ理解できました。
このあたりの玉川上水はまだ小高い場所の中腹を通しているので、玉川上水の向こうにはさらに上り坂が続いています。
もうひと頑張りと歩いていると、見上げるような場所に以前訪ねた神明神社が見えました。その隣にある消防署の15mの訓練塔とほぼ同じ高さですから、かなりの切り通しですね。いつ頃できた道なのでしょう。
*牟礼へ*
そこを過ぎると、ようやく台地の上といった感じの平地になり牟礼の里公園です。
牟礼の里公園
牟礼の里公園は、玉川上水に近接する高台にあり、周辺に広がる農業空間を含めて牟礼の里を構成するこの地域は、三鷹の原風景を感じることができます。
今後は、牟礼の里公園と玉川上水のアクセスを確保するとともに、玉川上水を軸とする公園緑地のネットワークの形成を目指して取り組んでいきます。
牟礼の里公園では、地域の方々がボランティア団体を結成して、園内の樹木の管理・清掃活動等を行なっています。秋には地元の住民による秋祭が開催され親しまれる公園となっています。
牟礼の里公園の正面には、木と茅で造られた門と中には石積みの壁があります。かつての豪農の家でしょうか。
以前訪ねた時に、樹木が多く美しい公園の印象があったそのままの佇まいです。
牟礼という地名はどんな意味だろうと検索したら、「<古代朝鮮語から>山」(goo辞書)だそうです。
たしかに神田川から登ったところにある山のような場所ですね。
それにしても玉川上水よりも一段も二段も高いこの牟礼の地域は、どうやって水を得ていたのでしょう。
*牟礼から新川天神社へ*
神田川と仙川にはさまれた場所は、大きな木があちこちに残り、空が広々として見える台地のような場所でした。
駅前通りが府中と小金井方面へと分岐する場所に、「東京都水道局牟礼一号水源」の施設がありました。現代は地下水で上水道を供給しているのでしょうか。
古い道祖神が交差点を見守る場所を南東に進むと、広い墓地がありその先は住宅地になりました。
暗渠さえなく水路の気配を感じない地域ですから、上下水道が整備されておそらく1980年代から90年代以降の開発でしょうか。
道もゆったりと蛇行しています。途中、ポツンと豪邸と畑地がありました。
「いいねえ〜あんな大きな家」と、ちょうど通りかかった人たちが話しながら過ぎていきました。
都内では土地を持ったものがちの30年だったのでちょっと不公平だなと私も思ったことがありましたが、その後、水を得にくい武蔵野台地の畑作地帯の人たちは、水田地帯の人たちから「麦は軽いから、風呂に入ると浮いてしまう」と言われていた時代もあったことを知りました。
ご先祖様の苦労が実った時代とでも言い換えられるでしょうか。
ここ10年ぐらいで建ったと思われる家が、畑や果樹園や梅林が残る場所に増えてきました。途中、中国語が聞こえ、自転車に乗った親子が通り過ぎていきました。
GPSを確認しながら歩いたのに、行き止まりになったり遠回りをしながらようやく東八通りに出ました。
ちょっと人里離れたところに造られ始めていた90年代の記憶が嘘のような交通量と沿線の賑わいでした。
横断歩道を渡ると大きな木が残る新川天神社の長い参道があります。
きれいに掃き清められた境内に入っただけでまた静寂になりました。
ご由緒を読むと、玉川上水(1653年)よりも前からある神社のようです。災害の記録もありました。
里老の言に依れば創立年月不詳と雖も往年は北多摩郡野川村天神山に鎮座せる処、寛永(一六二四〜一六四四)年間現在地に天神前北浦耕地に遷宮元禄(一六八八〜一七〇四)年間本殿の修復を加えたり、以降明治十四年九月台風の為社殿倒壊せるに依り明治十五年二月再建す。
昭和三十貮年拾月社殿老朽せるに依り改修をなす。
近郷名士崇敬特に厚く神徳顕著なり
ここもまた、若い女性が一人で参拝していました。
この神社の前の道をまっすぐ歩くと、また農地が広がり「災害時協力農地」の案内板がありました。避難場所になるようです。
住宅地のそばに大きなコンクリートの水槽がある水道局の施設があり、ここも災害時の「応急給水施設(飲料水給水所)」のようです。
その先にはまた、森がそのまま残る公園がありました。
散歩をしている人たちの会話がふと聞こえました。「今、このあたりは中国人しかいないよね」。
ほんの10年ほどで、都内もさらに様変わりしました。
水を得られなかった武蔵野台地の数百年の歴史と、日本で生活する外国の方が急増し、そして「日本人」の境界線も曖昧になってきたここ三十数年ほどの変化を行ったり来たりしながら仙川へと向かいました。
「10年ひとむかし」まとめはこちら。