新川天神社の前の畑が残るまっすぐな道を歩くと、新川二丁目交差点に出ました。
地図で想像していたのは都道117号の交通量が多い場所だったのですが、実際には武蔵野の森の風景が残り街路樹もまた美しい交差点で、何だか別世界に来たような雰囲気でした。
武蔵野台地で水が得難かったが故に森が多く残り、遺産とも言えそうですね。
仙川沿いの台地にはまだまだ畑地があちこちに残り、とうもろこしが実り始めていました。蔵のある家も残っています。そうそう、90年代ごろの世田谷とか三鷹はまだこういう風景が普通にあったと思い出しました。
興味深いのは、それぞれの畑の角に小さな赤い鳥居のある祠があったことです。
仙川へと下る道の途中には葡萄もなっています。
「仙川 せんかわ 川をきれいに美しく」と表示板があり、そうだった「せんがわではなくせんかわ」だったと、いつも混乱してしまう読み方を思い出しました。日本語は難しいですね。
のぞきこむと、水がきれいです。
川の両岸には、2000年代ごろからの住宅でしょうか、ぎっしりと建っていました。かつては氾濫に備えての遊水地だったのだろうと思う場所です。
*丸池公園へ*
左岸側の道は、台地へと斜面になっている場所にキャベツ畑や果樹園が続いています。
その先に、樹齢どれくらいでしょう、大きな木が丸く残る芝生が見えてきました。まるでCMに出てきそうな場所で、丸池公園に到着しました。
丸池の里 ご案内 丸池の里わくわく村
丸池の里わくわく村
三鷹市と市民の協働で公園設計を考える取り組みを経て「水と緑に囲まれた『ふるさと』の風景」が再現されたのがこの里です。この取り組みのなかから「丸池の里わくわく村」という活動が生まれ、里と地域の人々をつないでいます。
池のヒミツ
ここにはむかし、丸池(または大池)と呼ばれるわき水の豊かな池がありました。一度は埋め立てられてしまった池を復活させようと市民が意見を出し合い、人工池として整備されたのが今の丸池です。湿地では、植物の力で水をきれいにしてわき出し口から池に戻しています。地下水も利用しています。
それほど広くないのですが、いったん池のそばや森の中に入るとずっとこの風景が続いていそうな錯覚に陥りました。
*期せずして水神の森の大明神に出会う*
子どもの頃に遊んだ家の周囲や森の中の秘密基地というのは必ず湧水があったことを思い出しながら公園内に整備された水路沿いを歩くと、鬱蒼とした鎮守の森に囲まれた神社が一段高い場所にありました。
勝淵神社由来
祭神 水神 弥都波能売神(みづはのめのかみ)
合祀 柴田勝家 (兜)
天正十一年(一五八三)織田信長の重臣柴田勝家は賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄城に於て自刃したが、その折、孫の権六郎(三才)に愛用の兜を与え浪党を供に、上野国の外祖父日根野高吉の元にのがす。権六郎十六才にして元服、柴田三左衛門勝重と名乗る。慶長四年(一五九九)徳川家康は重勝を召し出し、上野国群馬・碓氷両郡のうち二千石を与える。慶長五年(一六〇〇)勝重は関ヶ原の戦いに初陣、さらに慶長十九年(千六百十四)大阪冬の陣、翌元和元年(一六一五)大阪夏の陣に従軍し、その戦功により武蔵国多摩郡上仙川村(現新川)・中仙川村(現中原)その他合わせて五百石を加増される。上仙川村に入村した勝重公は村の中ほどの台地(現島屋敷)に陣屋敷を建て住居とし、それより北方の台地水神の森に社殿を建立し、その傍らに祖父勝家公より与えられた黄金の兜を鎮めて、神霊として祀り社号を勝淵大明神とした。
以来四百年、当社は村の鎮守として村民の崇敬の念篤く代々の氏子会により護持されている。
どうやら丸池のあった場所は「水神の森」と呼ばれていたようです。
期せずして水の神様に出会う散歩になりました。
*おまけ*
今まではこうした戦国期の歴史は武将の名前から覚えなければならなかったので苦手だったのですが、最近では「玉川上水(1953年)ができる三十数年前」のように水路の歴史からその地域を想像するようになりました。
この地域もどんな生活があり、どんな変化があったのでしょう。
そして昔の人もまた、戦いや災害の後の混乱と混沌とした葛藤の時代をどのように耐えて、どれだけ時間をかけながら普遍性のある希望へとつないでいったのでしょう。
「水の神様を訪ねる」まとめはこちら。