鬱蒼とした鎮守の森からまた仙川沿いに歩き始めました。散策をしたり野鳥の写真を撮ったりする人がのんびりと歩いています。斜面に畑があるのですがしだいに傾斜がゆるくなり、川沿いの森が終わると東八道路との交差点に出ました。
目の前のお蕎麦屋さんが私を誘っています。
ちょうど夕方の開店直後で誰もいなさそうだったので入ってみました。定番の親子丼のセットをガツンと注文しました。まだ散歩が続きますからね。
東八道路ができる前のこのあたりはどんな街で、いつ頃からお店をされていたのでしょう。
安定の味とお店の雰囲気に満足して、でも少ししんみりとしながら歩き始めました。
ここから吉祥寺駅までどこを歩きましょうか。都道114号はまっすぐで道を間違えることはなさそうですが、何度かバスで通りました。
やはりここは蛇行した道を選んでみましょう。
*明暦の大火と下連雀*
下本宿通りを過ぎると、弘済園通りと都道110号に分かれる交差点にぐいっと出っ張った不思議な場所が見えました。
1本の木が植えられていて、その前が半円形に道路へと出ていて小さな広場のようです。
何やら案内板がありました。
地名の由来
江戸時代も上連雀村と下連雀村に分かれていたが、開村は、下連雀村の方が早かった。『新編武蔵風土記稿』の下連雀村の条には、次のようにある。
"下連雀村 村名の起こる処を尋るに明暦3年(1657)正月江戸回禄の時、神田連雀町も共に火にあひしかば、其処は上げ地となりし故住する処の町人へ替え地として、武蔵の御礼茅場千町野に於て宮地1町餘、寺地4町餘、名主へ7町餘、其外24人に4町餘より5町餘づつ賜れたり。"
とある。
明暦3年(1657)正月18日、振袖火事と言われた、大火が起こった。本郷丸山の本妙寺から起こった火の手は、たちまち江戸市街をなめつくし大損害を与えた。翌日また火災が発生し、両日の大火で、死者10万人といわれた。
幕府は防災のため、市街の改正や道路の拡張などを行い、防火地帯を各所に設けた。このため諸侯の邸宅や寺院の移転、市民の移住などを行なった。
この時神田連雀町は火除け地に指定されて、市民は強制的に御礼茅場千町野、通称牟礼野に移住させられることとなった。これが連雀新田の起こりで、下連雀村となるのである。
江戸時代の大火で現在の吉祥寺へ移転を余儀なくされたことは知っていても、この下連雀(しもれんじゃく)の地域もそうだったとは。
玉川上水が開削されて3年ほど、さらに大火による強制移住でこのあたりはどんな変化があったのでしょう。
翌万治元年に移住入植した者は、25戸であった。
百姓一軒につき金子5両ずつ拝借して開墾に従事した。その借用金は5年間に金額(*原文のまま)が幕府に返納されている。
連雀は背にものを負う方法の一つであり、そうした物を運搬することを仕事とする人々の住んでいた街が連雀町であったわけである。なお連雀で商売して歩くのを「連雀商い」またその商人を「連雀商人」とよんでいたということが、喜多村信節の『嬉遊笑覧』に見えている。
連雀で物を運ぶという運搬方法も、だんだんと入用が少なくなってきて、明暦大火の頃は、神田連雀町も、全部運送業者ばかりが住んでいたのではなかった。一説には、行商人が使う荷縄の連雀を作っていたものが集まっていたところともいうが、荷縄をつくる者と、物を運ぶものが混住していたというのが正しいだろう。
出典「多摩の地名」武蔵野郷土史刊行会発行
「連雀」にはそういう意味があったのですね。
*下連雀の昭和から現代へ*
さらに昭和からの変遷も書かれていました。
人口増加と軍需工場の進出
昭和6年の満州事変を契機に、従来低迷していた軍事産業は一挙に好況を迎え、陸海軍指定の軍需会社が、叢生し始める。さらに、昭和12(1937)年に日中戦争が勃発して総動員体制に入ると、飛行機、自動車、兵器、機械類生産に対する民間産業への依存度が急速に拡大して、多数企業が軍需工場へ転換し、拡張につぐ拡張を行い始める。
この趨勢を受けて、昭和初期から10年代にかけて、東京市部から三多摩へ次々と軍需工場が移転し始めた。
「東京府市町村要覧」によれば、三鷹村では、昭和2(1927年)には、工業といえば紡績工場(職工数15)が1つあるだけであった。昭和6年も同様で、ただこのとき職工数は3に減っている。
ところが、昭和8(1933)年には、正田飛行機製作所・三鷹航空工業株式会社が下連雀に創業、翌9年には、千代田製作所光学工場が、牟礼に創業、昭和10年の時点で、「原動機ヲ有スル工場」は4、従業員総数346を数えるに至る。
このような工場の相次ぐ操業・移転は、三鷹の農村的な姿を変貌させていった。工場に勤務する従業員の住宅や、寮も次々に建設され、農家が主体であった三鷹にも、工業従業者、公務従業者、自由業者、その他に属する戸数が急増していった。
近郊工業都市からの変容
三鷹は都心まで18キロの郊外住宅地として通勤人口を抱える住宅都市であると同時に、先にも触れたように、戦前期から既に首都の近郊工業都市としての姿をつくりだしていた。その素地は、おもに、昭和12(1937)年以降終戦に至るまでに相次いで建設された無線機機、航空機械工業等の軍需大工場の急激な発展の中で形成された物である。
だが、住宅都市としての側面と工業都市としての側面を比較するならば、30年代後半からは明らかに前者の側面の方が目立つようになる。1つには昭和31(1956)年に首都圏整備法(法律第83号)が公布され、その、3年後には、それに基づく「首都圏の既成市街地等における工業の制限に関する法律」(昭和34年法律第17号)が施行されたことにより、それから間もなく三鷹市域が規制適用区域に組み込まれ、大工場等の新設ができなくなったからである。
蛇行した道を選んでみたら、思いもかけず江戸時代から現代までの歴史を知ることになりました。
武蔵野台地の変遷の中で、「住宅地の前は農地だった」だけでなく「工業地でもあった」地域でした。
そして半世紀ほど前の中学・高校時代に明治大正でさえ駆け足で、昭和初期になるとさらっと習った戦前の歴史を、ようやくこうしてまとまった文章として読むことができるようになりました。
できれば「総動員体制」なんて言葉が再び現実になることがありませんように。
かつての軍需産業の跡地が住宅地になったのでしょうか、集合住宅群にはさまれた蛇行した道沿いには大きな木のそばにベンチがあり、沿道には草花がきれいに植えられていました。
突然、こんな市街地なのにGPSがずれました。ジグザグの道が続くのでGPSなしには不安でしたがなんとか玉川上水にたどり着き、吉祥寺駅まではもうすぐです。
ふとクチナシの良い香りが漂ってきました。
突然思いついてふらりと出かけたのですが、平和な時代そして森や川を楽しめる時代に生まれ育ったことにしんみりと感謝の気持ちが湧き上がる散歩になりました。
「行間を読む」まとめはこちら。
工業地帯についてのまとめはこちら。