岡山駅から特急しおかぜに乗り、今治まで2時間10分の車窓の散歩です。
品川から岡山が3時間で、岡山から今治が2時間かかるのですが、それでも子どもの頃の宇高連絡船しか四国へ渡る手段がなかったことを考えると、瀬戸大橋で結ばれたのは驚異的に変化する時代でした。
瀬戸内海の美しさに惹き込まれているとじきに宇多津駅に到着、ここで高松からのいしづち号が連結されて香川から愛媛の海岸線を走ります。
懐かしい丸亀の風景をながめ、多度津からは海岸線へと入りました。屋根瓦が美しい家が続き、海の中に嶋津神社が見えました。この辺りで一日中、瀬戸内海を眺めていたいものです。
*校歌からまだまだ知られていない歴史を探す*
帰宅して風景を懐かしく思い出しながら地図を見直していると、「三野津湾」と表示されました。
ここから線路は内陸へと曲がり、あの香川用水東幹線水路の支線で潤されている田園地帯へ入ります。
美しい集落と田植え直後の田んぼに白鷺がたたずみ、畑には葱坊主が大きくなっている夏の風景でした。
頼みの綱のWikipediaには「三野津湾」の説明がなかったのですが、2019年5月の「広報みとよ」に興味深い記事がありました。
校歌の謎を綿密に調査 研究発表会で日本一を獲得! 三野津中学校
文献と地形図をヒントに現地調査を繰り返す
♪入り江も広き 良港の 昔を偲ぶ 新田(しんでん)に♪
三野津中学校の校歌にはこのような歌詞があります。
「三野町はほとんど海に面していないのに、なぜ校歌では『良港』と歌われているのだろう?『新田』とは何のことだろう?そう疑問に思って3人で調べることにしました。
三野津中学校2年の綾直弥さん、関隼人さん、田中遥基さんは、昨年7月から2カ月間にわたり、校歌の謎を解明しようと調査に打ち込みました。調査では、三野町の歴史を町史で調べたり、町内約15地点の現地を確認したりしたほか、市の文化財担当者への聞き取りにも挑戦。
そうして調べた結果、古代には、現在の宗吉かわらの里展示館付近まで広がる大きな三野湾があったことがわかりました。また、高瀬川の土砂が堆積して土地が広がり、江戸時代前半には開拓によって三野津湾が新田へと生まれ変わったことを知ります。
3人は、3月に東京で開催された「第17回全国中学生徒地域研究発表会」で調査内容を発表。テーマの着眼点が評価されたことに加え、発表の練習を重ねてきた成果を発揮し、ステージ発表部門で見事1位を獲得しました。
次はGPS機能を使って、より正確な古代の海岸線マップを作りたいと話す3人。今後も地域の不思議解明に向けて意欲を見せてくれました。
地図では丸い山がポツポツとある地域で、かつては島だったのだろうかと気になっていた場所でした。
内陸のようで、やはり干拓地だったようです。いつか歩いてみたいものです。
市井の人の正確な記憶と記録によって成り立つ世の中ですが、中学生が校歌をヒントに自力で調べるのですからすごいですね。
*燧灘へ*
観音寺を過ぎて、昨年9月に暑さで諦めた三豊干拓地が見えました。
箕浦のあたりで海がぐんと近づき、海岸線に田んぼも見える風景です。
ここからが、今回の散歩の目的でもある燧灘です。
午前10時ごろ、海は深い青色に輝いていました。
川之江には、おそらく島だったのだろうと思われる小さな小高い場所に川之江城跡があり、山との間を列車が抜けていきました。
このあたりからの沿岸部は、干拓地というよりは埋め立て地のようで工場があります。
大きな川はないのに、すぐそばの山から水量の多い水路が見えます。「三島紙屋町」は製紙工場の敷地そのもののようでした。
美しい川が見えました。関川で、そこを過ぎると列車は山あいに入り、抜けると新居浜です。
この辺りも干拓による土地でしょうか。
新居浜は浜辺の街かと思っていましたが、山がすぐそばです。
まるで衝立のように真っ直ぐの山すそが続いています。これがみてみたかった中央構造線でした。
どこまでもゆったりとした水田地帯と落ち着いた街並み、そしてダイナミックな山並みが続きます。
山に挟まれた場所を抜けると宿泊予定の伊予西条駅を一旦過ぎ、美しい加茂川を渡りました。
このあたりから、翌日に歩く予定の「新開」「新田」と地名がついた広大な干拓地が続きます。
水路を見逃さないように、まばたきも惜しんで車窓の風景を眺め続けました。
また山あいをしばらく走り、水田地帯が再び見えて11時35分今治駅に到着。
2時間10分の充実した車窓の散歩が、あっという間に終わりました。
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