散歩の1日目、7月なので午後7時半ごろまでは明るいのですがさすがに35度以上の中を歩く気力も体力もなく、早々にホテルへと向いました。
その途中にも地図では「うちぬき」と示された場所があるのですが、残念ながらわかりませんでした。とにかく涼しいホテルへと歩き、5時にはチェックインしました。
部屋の眼下に田んぼがあります。ここもまた干拓地です。すぐ近いところに中央構造線の山が見え、その山裾からすぐに田んぼが始まっているのが見えました。
この田んぼと県道13号線道で隔てられた地域は工場地帯で、日が暮れるに従って明るくなって別の世界になりました。
カラスも家に帰る頃で、山の方ではなくなぜか海側へと向かって行きました。
ホテルの部屋は8階で、鳥たちはだいたいこの高さを飛んでいるようです。これが鳥瞰(鳥の目で見た世界)でしょうか。
ぼーっと窓の外の風景を眺めている間、1時間に数台の救急車が近くの病院へと入っていく音が聞こえました。
*禎瑞地区へ*
伊予西条を訪ねてみようと思ったきっかけは、地図で海岸線の干拓地らしい場所を眺めていたら承水路の近くに「西条のベネチア」と書かれていて、その堤防をたどると「龍神社」があったことでした。
ここをぐるりと歩いてみたい。そのあと南側の「新開」がつく田んぼも歩いてみたい。
2日目の朝7時前、まだ涼しい時間に出発しました。
その地域までは徒歩しかないのですが、稲の香りに包まれながら田んぼ沿いを歩くのは楽しいものです。集落を抜けると、3~4km離れた山の端まで田んぼが続いているのが見えるのは圧巻です。
田んぼの近くにある家の外の蛇口から水が勢いよく出続けています。それがそのまま水路へと流れているところを見ると、これもまた「うちぬき」の一つでしょうか。
豊かな水に癒されてのんびりと歩いていたのですが、まだ27度ぐらいなのに1時間ほど歩いただけでもう汗が止まらなくなってきました。
昨年9月に丸亀市内のため池と田んぼを歩いた時のような状況になったので、すぐに近くのコンビニエンスストアに避難しました。イートインのないお店でしたが、「涼んでいって」と言ってくださったのでありがたく飲み物を買ってしばらく休ませてもらいました。
これでは今日の計画のほとんどをあきらめることになるでしょうか。
元気になってまた歩き始めました。
川風を感じるようになり、大きな川が見えてきました。河口の方まで見えます。
昨日、車窓から美しいと感動した加茂川です。この川の伏流水がこの地域の豊かな水の風景を作り出しているそうです。
橋の対岸が禎瑞(ていずい)地区で、堤防より低い位置に集落があり、嘉母神社が見えてきました。
境内に「客土記念碑」と彫られた大きな石碑がありました。
散歩をするようになって種々の石碑を見るようになりましたが、「客土」は初めてです。
そばにその経緯が書かれたもう一つの石碑がありました。1946(昭和21)年の南海地震による地盤沈下で満潮時には1mほど田んぼが湛水してしまう事態になり、排水機設置を始めそれに対応した事業の記念碑のようです。
そのほかに「禎瑞新田開拓二百十年記念」(昭和59年)、「禎瑞新田開拓二百二十年記念」(平成8年)そして「禎瑞新田開拓二百三十年記念」(平成18年)の石碑もありました。
手水も盆の真ん中から水が湧き出しています。その上に「西条打抜音頭」が掲げられていました。
伊予の西條は 御城下町かよ
石鎚山から 流れる加茂川
神の水だよ その又地獄の
岩を打抜く わしらの誇りの
打抜く家業は 先祖代々
打出す清水は 水晶の如く
夏は氷か 冬は湯の水
飲めば玉水 長寿の秘訣よ
今は開けて 製紙に絹麻
人絹工業の もとでとなるかよ
こうなりやあとあと わしらの稼業も
機械の力に とられて仕舞うか
そうなりゃわしらも 金棒かついで
地獄巡りや 石鎚詣りで
罪をほろぼし 極楽浄土え
生れ替って 水の都の
伊予の西條え
手水一つにもその水の歴史と、工業化(産業化)との葛藤の歴史が書かれていました。
さて、禎瑞新田の周りの堤防沿いにぐるりと歩くと1時間以上かかりそうです。この暑さで木陰もない堤防の上は危険だと思い、禎瑞新田や周辺の「新開」地区を歩く計画は断念しました。
それでも山裾から広がる広大な美しい水田地帯と、加茂川、そしてその伏流水がうちぬきとして水路へと流れている風景です。
全国津々浦々、水田は健在ですが、こうして地下水による干拓地があることを知っただけでも来た甲斐がありました。
「米のあれこれ」まとめはこちら。
工業地帯についてのまとめはこちら。