あまりの暑さに、2日目は午前10時で散歩も打ち切りかと思ったのですが湧水を眺めて一休みしたらもう少し歩けそうな気がして、近くのバス停から今治行きのバスに乗りました。
歩く予定だった氷見新開の広大な田んぼとその向こうに見える沿岸の工業地帯や集落を車窓から眺め、左手には中央構造線が衝立のように迫ってくるダイナミックな風景を北西へとバスは進み、11時18分、楠浜バス停で下車しました。
誰も歩く人のいない炎天下の中、東予運動公園へ歩き始めるとすれ違った男性に明るく挨拶をされました。
なんと気さくで優しい土地柄なのだろうと思いながら挨拶を返したのですが、もしかしたら得体の知れない女性が一人海へと向かったので思いとどまらせようと誤解されたかも知れないと、ふと気づきました。暑さで悲壮な顔をしていたかもしれません。
さて、だだっ広い運動公園は、プールの季節というのにあまりの暑さのためか人ひとり見かけません。
西の端の小高い展望台へ登ってみました。
なんと燧灘沿岸が一望でき、西側のしまなみ海道のあたりまで見えます。
真っ青な夏の瀬戸内海の風景をしばらく独り占めしたのでした。
バス停まで、水路に沿って水田地帯を歩いてみました。途中、蓮田もあります。花が咲いていないので蓮根の栽培でしょうか。
海抜2mの標識があり、その向こうに水田が山裾まで広がっていました。
いつ頃の干拓地なのでしょう。
楠浜バス停から新居浜行きのバスに乗り、ぐるぐると落ち着いた街の中を通って戻り、お昼ご飯を食べて13時半にはホテルへと戻りました。
*漁村から河原津新田へ*
この場所を訪ねてみたいと思ったのは、何かの資料でここに干拓記念碑があることを読んだからでした。きっとこの運動公園内に違いないと目星をつけたのですが、見つけられませんでした。
帰宅してからどの資料だったか探してもわからないままでしたが、「えひめの記憶」にこの地の干拓の歴史が書かれていました。
六 河原津の漁村
浜堤上の集落
大明神川河口より燧灘の海岸線に沿って、海抜二・五mの浜堤が続く。河原津の集落はこの浜堤上に立地する細長い列状の集落である(写真2-27)。付近は遠浅の海岸で干潟が分布する。七〇年に一度は干拓が可能であるといわれるぐらいに土砂の堆積が進む干潟は水産物の宝庫でもあり、車えび・あさり等が生息する。
昭和三二年に着工した干拓事業が同四六年に完成すると集落の立地している浜堤は内陸化してしまった。河原津の集落では浜堤上に海岸線に並行に二列の道路が配置され、その道路に沿って家屋が密集する。道路の幅員は九尺(約二・七m)に設定され、オカからオキへの方向性をもったタテの道は、四尺二寸幅の狭いもので「七合みち」と呼ばれた。漁村特有の建ぺい率の高い家屋の集合も、現代のような車文明の社会となっては日常生活に大きな支障となってあらわれてくる。集落前面の利用度の低い広大な干拓地(名目上は農地)とは対照的に一cmのひろがりさえ欲しい集落や道路部分である(写真2-28)。
集落の背後は排水不良の湿地がひろがっていたが、河川の改修等の整備がすすめられるなかで見事な水田地帯となっている。明治の野取図では後背湿地の分布が見られる。
一般的に漁村では良質の飲料水の確保に苦労するが、河原津地区は全くその苦労はなかった。およそ一〇m程度の深さを掘ると、西条地方に見られるような「打抜き」の自噴井がみられる。これは大明神川と北川にはさまれた当地区では、これらの水系により涵養された伏流水の滞留によるものと考えられている。
発達過程
歴史的には、天正一七年(一五八九)の福島正則の掟状に「くわ村郡かわら津」の記録がある。『伊予史談(一一二号)』は、河原津の名称から河原荘の積出港であったと述べている。桑村郡は松山藩領であったが、明和二年(一七五六)楠、河原津等九か村は上地され天領となっている。寛文一七年(一六六七)の『西海巡見志』は河原津のことを下のように記載しているが、当時の河原津の様子がよくわかる。
壬生川より壱里
一、河原津
一 遠見番所 有
一 舟番所 有
一 片浜
一 高 弍百捨石
一 家数 百五十軒
一 舟数 五艘 内三艘百八十石積より二百石積迄、二艘猟舟
一 加子数十二人
隣村の壬生川は遠干潟で、家族も一一〇軒でありながら、舟数二七、加子役八二人は河原津より多い。河原津が天領となると、壬生川との間に漁場をめぐる紛争が頻発している。(『壬生川浦番所記録』(斉藤正直訳))
幕藩期の河原津は農業を中心として開発が進展し、遠浅の海岸の魚介類も豊富なので兼業的に漁業を営むことから、次第に漁業専業者もあらわれて、漁村としての性格も形成されたのであろう。早くから漁業を営んでいた壬生川や新居浜の漁民との漁業紛争が頻発してくるのも、海に向かっていった河原津の性格をよくあらわしている。
河原津の集落は、船溜まりを中心にして展開しているのがわかる(図2-28)。集落周辺の小字には、船溜の最も主要部に蔵屋敷の地名を読むことができる。現在ここは墓地となっている。少し内陸部には蔵之上、或いは町口といった小字も見え、河原津が米などの積み出し港としての性格をもっていたことも推測される。内新開・上新開・中新開・下新開などはいずれも浜堤背後の排水不良の湿地帯で、明治以降水田化がすすめられたものである。
燧灘干拓事業
昭和二三年より楠河東工区の干拓事業が開始され、三四年に完成、七七haが造成された。楠河西工区は第一工区の干拓事業が四二年一〇月に完成、七三haが造成されたが、第二工区の干拓は突然中止となった。昭和四〇年東予国民休暇村に指定され、休養地、観光地的面から汀線の保存が配慮された(図2-29)。
終戦後の食糧難の打開策として、遠浅海岸の干拓事業は、地元の申請などにもより、地元漁民の無償にも近い漁場の提供によって進められた。しかし着工期間の約二〇年間における社会情勢の変貌は、河原津地区の対応を違ったものにさせた。
楠河東工区の干拓農地は、漁業権との関係で河原津地区の漁民に優先的に配分することで合意がなされていたが、還元金の調達や農地購入価格等の面で、漁民と関係当局との話し合いがつかず、この時西条黒瀬ダムが建設され、四三年水没地の一五戸が入植することになった。現在の河原津新田である。楠河西工区の干拓地に対しては、「農地法」に照らして三反以上の耕地をもつ、半径三km以内の農民に対しての、農地の配分を公募したことで、河原津地区漁民の土地配分の優先権は消え、事態は紛糾した。
二〇年を経た現在もなお、干拓地は名目だけの有限会社河原津農園(地目は畑)となっており、実際には放置されている。
漁業の立場から干拓事業を見ると、新港の建設は漁船の動力化・大型化を促進することになった。すなわち干潟の発達により、干潮時ともなると旧船溜は、ほとんど港としての機能を失っており、出入港には大きな支障となっていた。現在の河原津漁港は常時一〇〇隻を超える漁船の係留を可能にし、給油施設、荷揚施設等の整備も進められている。
しかし他方では、河原津漁港が集落より五〇〇m以上も離れた場所に設置されたことで、集落と漁港が分離するという極めて特異な形態ができあがっており、漁民は自転車や自家用車によって集落と漁港を往復している。
漁業経営
河原津地区の就業構造を昭和五五年の国勢調査を調査区別集計結果で見ると河原津地区五一四世帯(およそ国道一九六号線の東側の範囲で集計した)では七一世帯(全体の一三・八%)が漁業・水産養殖世帯であり、これは東予市五九世帯の八〇%に当たる。東予市にあっては就業構造の面からも、河原津地区に漁業が集中していることを物語っている。
瀬戸内海という閉塞した漁業条件のもとでは、大規模漁業経営は望むべくもないが、河原津地区は比較的装備の近代化がはかられ、出漁性の強い漁村となっている。底曳網漁業の基地としては、特に瀬戸内海では、伊予灘の双海町豊田漁港、燧灘の河原津、今治両漁港が主要な基地とされている。
河原津地区の漁獲では、年によって変化が大きいが、ガザミ・えび類・かれい類がそれぞれ一億円以上の水揚げとなっている(表2-35)。出でもが砂泥質の海底に生息する魚介類であり、小型底曳網によって漁獲されたものである。漁法、漁期の特色は、四月から一一月にかけては、えび漕網からチェーン漕網のどちらかの漁法がとられている。そして一二月から三月にかけては、漁具を積み替えて戦車漕網(マンガ漕ともいう)漁法にかわる。これらの小型底曳網漁業は大半が三〜五トンの漁船で、ほとんど一人乗りで操業される。
河原津を代表する漁法に、さわら流し網があげられる。漁期は四月中旬から六月中旬までの短期間に集中するもので、天候、とくに水温によって漁獲が大きく左右され、漁獲量の差異が大きい。さわら流し網漁は、燧灘・伊予灘両方に許可されるが、昭和六二年現在愛媛県全体で三九六件の許可があり河原津地区が三〇件である。
戦後昭和三〇年ころより急増したのり養殖は、同四一年には一二一経営体で営まれた。しかし干拓事業の推進に伴う漁場の喪失や漁場の汚染、のり価格の低迷等によって経営は急激に交代し、のり養殖を継続しているのは五経営対にすぎない。
河原津新田を検索したら、期せずして燧灘の漁業についても知ることができました。
ちょうど私が生まれる頃にできた干拓地で、その後経済や社会の変化にともなって驚異的に変化した時代を経てきたようです。
この記録が書かれたのは昭和63年ですが、それから36年間の変化はどのように表現されることでしょう。
「米のあれこれ」まとめはこちら。
工業地帯のまとめはこちら。
蓮についてのまとめはこちら。