政治の迷走で、ほんと日本はどうしちゃったのかという話題に事欠かない毎日。
国民が「それはおかしい」「それは嫌だ」ということをなぜ次々と投げ込んでくるのでしょう。
「任意であったものを強制されるのはおかしい」「トラブルが多くて信頼できない」「カードの手続きが大変な人がいる」という声が高まれば高まるほどあの手この手で押し通そうとするし、税金をとりすぎたのにその消費税については絶対に変えようとしないし。
さらに少し調べれば統一協会と関係があったこともわかる人や、政治資金の闇やさまざまな失言やら失態やら政治家の資質を問われている人たちの息を吹き返させるとか。
一掃するための衆議院選挙だったと思ったのに。
あるいは一時的な補助金を選挙前に出したりあるいは非課税世帯だけに給付金を出すといった旧態依然の姑息な手段で、国民は生かさず殺さずの状態にされるのではなく経済的に自立できるような方向を求めているのに、今、またここでそれですかということばかり。
過酷な使役で自由を奪われていたユダヤの民がエジプトから離れようとしている計画を知ったエジプトのファラオは一層過酷な労働を課して逃げられないようにしていくのですが、ユダヤの民の強い気持ちは変わらず、それに対してかたくなな心のファラオはやはり奴隷を手放したくないと、魔術師を使ってエジプト脱出を邪魔しようとした。
「十の災い」、あの話は人間社会のリアルを描いたもので、いつの時代にも繰り返すということを伝えていたのだと実感するこの頃。
40年ほど前に読み始めた時には、大昔の未成熟な時代の物語だと思って読んでいました。
まさか、それを自分が生きているうちに体験することになるとは。
*ファラオも魔術師も滅びないのは*
その嫌がらせに対してユダヤの民もモーゼという指導者を得てエジプトを脱出することができたというのに、自由を得た民の中から奴隷の方がマシだったと批判が出てくるのが聖書の真髄だとも思うこの頃。
決して誰かがズバッと解決してくれるわけではない、人間社会の混沌とした闇。
だからいつの世も、ファラオのようなかたくなな心の支配者やそれを助ける魔術師のような人あるいはイスカリオテのユダのような人も絶えることもない。
そしてファラオはかたくなだけれど自分の存在を守るためには平気で心を翻すのでしょうね。
20代ごろの私は、「勧善懲悪」「真実」が書かれている権威ある書物と思って聖書を読み始めたのですが、読めば読むほど人間をありのままにただ描いている書物だと思うようになりました。
内容は、日々ニュースで目にすることばかりじゃあないですか。
この先、私は心の自由を保ち続けられるでしょうか。
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