計画の段階では屋島との間は干拓地だろうと予想したものの、どんな島かまでは調べることもなく出かけました。
岡山側の吉備の穴海に浮かぶ島々のような風景を想像していたのですが、久米池の真正面から見えた屋島は長細い台地状でしかも端が白っぽく削れている山でした
石垣のために切り出したのだろうかなど考えていたのですが、帰宅してからWikipediaの屋島を読んで「そうだったのか」と知りました。
屋島(やしま、旧字体:屋嶋)は、香川県高松市の北東に位置する、硬質の溶岩に覆われた平坦面が侵食された残丘。南北に長い台地状の地形。
屋島の地形は、新生代中新世の約1500万年前から約1300万年前にかけて起こった瀬戸内海火山活動の溶岩などで形成された讃岐層群からなる。基礎岩は花崗岩で、火山活動の溶岩などが湖を埋めた後に土地が隆起したとされている。その後、長期にわたる浸食・削剥作用に対して、硬質の讃岐岩質安山岩(サヌキトイド)がキャップロックとなって残った台地の地形である。
塩田跡と干拓水田が埋め立てられ、短い多くの橋が架り、探索だけでは島を認識することは困難である。四国本土と屋島は相引川(幅約10mほどの川)で分離されている。
山頂近くの都山道沿いの通称「畳石」は、板状節理の露頭である。その他、屋島礫層と通称「雪の庭」と呼ばれる白色凝灰岩が南嶺山上に分布する。
岡山のような悪石(あくせき)地形だったのでしょうか。
地図を見て「きっと干拓地」と目星をつけただけで喜んだのですが、それは地球の歴史から見たらごく最近の話で、いやはや地形とか地理には1500万年とか気が遠くなる歴史がありますね。
*江戸時代に陸続きになった*
Wikipediaの「屋島」には干拓地になった時代についても書かれていました。
屋島の名称は屋根のような形状に由来し、高松市のシンボルになっている。また古来から瀬戸内海の海路の目印となる特徴物であり、海外交流交易海路に面した要衝であった。
屋島は江戸時代までは陸から離れた島であったが、江戸時代に始まる塩田開発と干拓水田は後の時代に埋め立てられ、陸続きになった。ただし、相引川を瀬戸内海につながる「水路」とみなした場合には、四国本土と切り離されているという見方もできる。海上保安庁では屋島を島として定めているが、現在の法定区分は、高松市を形成する四国本島の扱いである。全体の大きさは南北に約5km、東西に約2km、南嶺の標高は292m、北嶺の標高は282m、平坦な頂面の周囲に大きな崖を持つ典型的なメサの台地であり、開析溶岩台地、両峰は細い尾根で接続されている。なお、当山は四国百名山の57番であり、その制覇を目指すものにとっての最高地点である一等三角点「南嶺292.1m」がある。
現在は「四国本島の扱い」だけれど、海上保安庁では「島として定めている」ということもあるのですね。
そして「メサ」「開析溶岩台地」とか地理の専門用語はほとんど知らずに生きてきたことがなんとも残念で、やり直せるのなら地理の基礎からもう一度学びたいものです。
地図を眺めていた時に、屋島の南側をぐるりと干拓地らしい場所と水路が描かれていていつか歩いてみたいと思っていたのですが、これが相引川だったようです。
江戸時代、どれだけの時間をかけどのような方法でここを干拓地にしていったのか、そして干拓のための土はどこから来たのでしょう。
そして塩田から水田へ、どのようにこの地域の生活が変わり、そして初めて稲穂が実った時はどんな雰囲気だったのでしょう。
興味が尽きないですね。
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