小田急線は子どもの頃から馴染みのある鉄道だったので、その沿線の風景の記憶がけっこうあり、近くを散歩するたびに記憶と現在を行き来しています。
さらにここ数年、全国の川や干拓地を歩くようになって各地の鉄道に乗る機会が増えて、その歴史に関心が出てきました。
一本の鉄道の歴史の行間を知れば知るほど、また知らないことが増えていく楽しさです。
小田急線もだいぶ知った気分になっていたのですが、そういえばあさぎり号からふじさん号になったのはいつだったか、沼津まで乗り入れていたのがなくなったのはいつだったかと直近の歴史がもうわからなくなっています。
Wikipediaの「ふじさん」で答えがすぐにわかりました。
「あさぎり」より前に別の名称もあったようです。
・1955年(昭和30年)10月1日:小田急電鉄が箱根・富士方面への観光輸送を主目的として、小田急新宿駅ー御殿場線御殿場駅間に気動車準急列車「銀嶺」(ぎんれい)・「芙蓉」(ふよう)を1日1往復ずつ運行開始。
・1959年(昭和34年)7月2日:特別準急「朝霧」(あさぎり)・「長尾」(ながお)の運行開始。1日4往復の運転となる。
1968年(昭和43年)7月1日:御殿場線電化により、SSE車を導入。同時に「あさぎり」に名称統一。
かつては「朝霧」が走っていて、私の記憶のロマンスカー「あさぎり」は小学生の頃にちょうど御殿場線が電化した時期に始まったようです。
「沼津まで」になったことと、新松田駅で小田急とJRの乗務員が交替するようになった経緯も書かれていました。
・1991年(平成3年)3月16日:小田急が保有するSSE車が経年による車両交代時期を迎え、JR東海と小田急電鉄が両社で新規に車両を製作し特別列車として相互直通運転をする形態となる。
そして2012年にはまた新宿ー御殿場間に戻ったようです。
また、子どもの頃のロマンスカー車内はタバコの煙がすごかった記憶があったのですが、全席禁煙は案外と最近で、2007年だったようです。
*記憶の中のホットコーヒーとサンドイッチ*
ロマンスカーの記憶で鮮明に残っているのが、メニュー表をみて注文すると席まで軽食や飲み物を持ってきてくれたことでした。
車窓の風景が好きな私なのにこの誘惑は強く、風景よりはちょっとリッチな気分になってコーヒーとサンドイッチを食べた記憶があります。
そしてホッとコーヒーは耐熱ガラスのグラスで出されたことも、何故か鮮明に覚えているのでした。
Wikipediaにその経緯がありました。
1968年7月1日相互直通列車がSSE車による運行に変わってからは、森永エンゼルによって小田急線内の特急ロマンスカーと同様の「走る喫茶室」のシートサービスが行われた。
そうそう「森永エンゼル」でした。
1991年にはシートサービスから車内販売になり、その車内販売も2011年3月11日で終了になったようです。
「年表」にその理由が書かれていました。
2011年(平成23年)
・3月11日:この日を持って車内販売終了。東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)および東京電力・福島第一原子力発電所停止による電力不足の影響により、全列車運休。
・4月16日:1・2・3・8号の2往復を運行開始。
あの「14:46東北太平洋 M8.8余震続く」と手帳に赤字で記録したあの日、余震が続き出勤の足がどうなるかだけでなく、未曾有の災害となり日本は終わってしまうのではないかと思う毎日でした。
車内販売に携わっていらっしゃった方々は、突然、仕事を失われたのですね。
*小田急線乗り入れの「前史」*
ロマンスカーが御殿場あるいは沼津まで通っていたのは、そこに観光地があるからだろうと思っていました。
おおむねその通りなのですが、また違う経緯があったことをWikipediaを読んで初めて知りました。
前史
小田急線と御殿場線を結ぶという発想は、第二次世界大戦中に国鉄東海道本線(特に根府川駅の近くにある白糸橋梁など)が爆撃を受けた際に迂回路線として活用するという構想に遡る。この構想は具体的なものとなり、松田駅付近では用地買収と橋脚の建設まで行われたが、まもなく終戦となったために実現しなかった。
丹那トンネル建設のための多くの犠牲者とトンネルの真上の丹那盆地への影響を乗り越えて旧東海道本線が御殿場線廻りから熱海廻りとなったのですが、何度も谷津にかかる橋を渡りながら相模湾が美しい根府川駅のあたりは戦争中には弱点となったのですね。
戦争中には鉄道網が強化され、戦後には観光に活用され、利用が少なくなると廃線されていく。
現代はそういう時代のつながりだったのだと、またひとつ鉄道の歴史を知ることになりました。
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