昨年10月中旬の深良用水と狩野川を歩く散歩の二日目の朝、ホテルでテレビをつけながら支度をしていると、ノーベル経済賞が「植民地時代の搾取についての研究」だと聴こえてきてあわてて画面を見ました。
ノーベル委員会 「国家間の所得格差を是正することは現代における最大の課題のひとつ」
テロップには「植民地時代」の文字はなかったのですが、こう表示されていました。
ああ、やはり私の「先進国側」という表現の違和感は、「先進国」というのはかつての宗主国あるいは宗主国を目指していた国々を言い換えたものであって、植民地時代と新植民地時代を見えにくくさせるのではないかという疑問はあながち間違いでもないのかもしれないと思いました。
1980年代半ば、当時「開発途上国」と言われた国に一時期住んだ時からある葛藤で、すでに「先進国入り」した日本に住む私が食べるものは他の国の人の搾取や人権侵害の上に得ているのではないかという葛藤を、13年前から始めたこのブログの中でも時々書いてきました。
10年ほど前だと、日本の社会の中で「搾取」という言葉はなんだか日常生活の中では強すぎて浮いてしまうような感覚で、ためらいながらもブログの中で使いました。
ところが、ふだんの会話では強すぎるその表現が、最近はひしひしと我が身に迫ってくる感があると感じるようになりました。
最近では国内の政治家も補助金の連発で、国民が自分で稼いで自分で自立した生活をしたいという思いとは反対のことをしようとしていますが、まさにあの片手で援助、片手で搾取ですね。
無痛分娩に補助金までバラまかなくても、減税してくれて「自分がそれを選択したいと思えば自分でそのお金を準備できる」方がよっぽど自立して豊かな社会ですからね。
それまで自立した経済を求めてきた産業の構造まで、権力者や政治家に依存したものにしてしまう。
それが「新自由主義」。
ほんと、罪深い政治家が増えました。
権力を持ったものは奴隷を手放そうとしないし、奴隷も生きていくために自立とか自由なんて考えなくなる、まさに旧約聖書の時代から繰り返しているのだと。
ようやくあの植民地時代とはなんだったのか、搾取とはどういうことなのか、そしてそれが現代とどうつながっているのかという視点の学問が日の目を見るようになったのだと思いました。
そして経済学にも、失敗を認めてより良いものにしていくためのリスクマネージメントの流れがあることを知ることができました。
「学問っぽいもの」「理論っぽいもの」とは違う、学問とはこうした時間が必要ですね。
普遍的な物事を求める方向がどこからか湧き出て、そして次の時代にそれが形となって現れる。
それがヒトの社会なのだと、なんだか希望の光が見えるニュースでした。
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