ノーベル経済学賞についてはその後ほとんどニュースにならなかったのですが、日本が「敗戦国から先進国入りした時代」の雰囲気がわかる記事がありました。
「あの日」から統一教会関係の記事を追うようになったのは、私の世代がまだ歴史として学ぶには近すぎる終戦直後の社会を知ることができることも理由の一つです。
敗戦により、農地解放、財閥の解体、義務教育の普及が進み、努力すれば報われる社会になったその恩恵を受ける時代に生まれ、そして先進国入りしたのは勤勉な国民性だからだと言われて育ちました。
確かにそういう面があり、一方で、資源もない国なのになぜ豊かになったのかという疑問もありました。
そして豊かな国になったはずが、ここ30年ほどでまたいつのまにか持てる者と持たざる者の差が大きくなり、かつて途上国で言われていた「片手で搾取、片手で援助」のような補助金に頼る生活に転落したのはなぜだろう。
その答えが、「植民地主義から新植民地主義へと変わったあの時代」にあるような気がしてきました。
それは「植民地主義の宗主国」を「先進国」と言い換える時代だったのではないか、と。
そんな時にこのニュースがあり、覚書のために記録しておこうと思います。
安倍3代と統一教会 半世紀余りの”組織的関係の原点” 「信者が40人いれば1人当選させられる」 【報道の日2024】
(2024年12月29日、TBS NEWS DIG)
安倍元総理銃撃事件をきっかけに明らかになった自民党と旧統一教会との癒着。その原点はどこにあったのでしょうか?1959年に統一教会が日本に進出して以降の岸一族との知られざる関係を、教団側の現役幹部がテレビの前で初めて証言しました。
▪️教団側の現役幹部が初証言「関係がなかったなんて、言えないと思う」
朝日新聞が2024年9月、安倍晋三元総理と統一教会の会長らが2013年の参院選挙前に自民党本部で面会していたことを報じました。
この場に同席していた教団の政治団体「国際勝共連合」の渡邊芳雄(わたなべ・よしお)副会長。
国際勝共連合 渡邊芳雄副会長
「(朝日新聞の写真を指して)こちらです。一番端っこです」
初めて取材に応じた理由は「これまでの報道は一方的だ。教団側と自民党の関係、その真実を知ってほしい」というものでした。
国際勝共連合 渡邊芳雄副会長
「2013年の参議院議員選挙において、全国比例で特定の候補・北村経夫さん。この人を応援しようという動きになりました。それを(安倍元総理)に説明しに行ったと思います」
Q.安倍元総理はどういう反応を
「うれしいと言いましょうか、合意の言葉があったと思います」
けれど自民党は、一貫して「教団との組織的な関係はなかったと主張してきたはず。
国際勝共連合 渡邊副会長
「『今まで組織的なつながりを持ったことがない』なんて言えないと思いますよ」
きっかけは今から60年ほど前。
(山梨県の)本栖湖の湖畔で、統一教会教祖・文鮮明(ムン・ソンミョン)氏と右翼のドンと云われた笹川良一(ささかわ・りょういち)氏が、ある合意に至ったのです。
笹川氏は”戦後を代表する政財界のフィクサー”の異名を持ち、全国モーターボート競争会連合会の会長でもありました。
会場になったボートレーサーの養成施設は今も当時のまま。そこに招かれた文氏は、笹川氏の協力のもと「国際勝共連合」を立ち上げることを決めたのです。
笹川氏がメディアから”タブー視”されていたこともあり、統一教会との関係はほとんど報じられませんでした。
朝鮮半島を分断した戦争の記憶もまだ生々しい時期。統一教会が韓国で創立された背景には、共産主義勢力への対抗という側面もあったのです。
本栖湖での会議から遡ること8年、教団は日本に進出。
その後すぐ、笹川氏の人脈を介して反共思想の持ち主・岸信介氏に接近します。
以来、娘婿(安倍晋太郎氏)から孫の安倍晋三氏へ。関係は、あの銃撃事件によって注目されるまで、ベールに包まれていたのです。
半世紀余りの三代にわたる、政治家一族と統一教会の絆を紐解きます。
▪️岸・安倍三代と統一教会”組織的関係の原点”
岸信介氏の総理就任は1957年でした。TBSには、在任中の元総理を追った貴重な映像が残っています。そこには、孫の安倍晋三氏(当時3歳)も。
岸信介元総理
「僕は?僕はいくつだ?」
「特に弟(晋三氏)の方が乱暴者で。おい、じっとしなきゃダメだ。あそこでうつりますよ」
娘婿の安倍晋太郎氏と晋三氏が遊んでいるのは、渋谷区南平台にあった岸氏の邸宅です。
この時期、日本の領域内で日米の共同防衛を可能にすることを目指していた岸元総理。
1960年には日米安保条約の改定に取り組みました。
これに反発した人々は大規模なデモで「安保反対」を叫びます。デモ隊は、岸元総理の邸宅にも押し寄せました。
当時の報道
「『岸を倒せ』のデモの声が毎日毎日、南平台に続きました」
反共を掲げる岸元総理は、デモを主導する左翼の人々への嫌悪を回顧録に綴っています。
「共産党員というものは、人間の誠実さとか善意の通用しない、我々の頭の中にある”人間”には当てはまらない連中だと思っていた」
新安保条約が成立すると、岸内閣は退陣。岸氏は南平台に並んでいた邸宅のひとつを手放します。
そこに1964年に移転してきたのが、統一教会の日本本部でした。
岸氏や孫の晋三らが遊んでいた、あの庭で信者がランニングや体操にいそしむ姿がありました。
その後、急速に接近した教祖・文鮮明氏と岸氏。2人の間をなぜ笹川氏が取り持つことができたのでしょうか。
笹川氏と岸氏は戦後、A級戦犯の容疑で、共にスガモプリズンに収監されていました。
それ以来、親交があったのです。
国際勝共連合の渡邊副会長によれば笹川氏は岸元総理に、こう語ったと言います。
国際勝共連合 渡邊芳雄副会長
「『是非、見守っていてもらいたい。あるいは時には協力してもらいたい』と笹川先生から(岸元総理に)言われたということがあって、それで岸先生が南平台の教会の本部を訪ねるようになったというのが最初です」
勝共連合の勝共とは、共産党に打ち勝つこと。統一教会は1960年代半ばから、「勝共連合」を世界に広め始めます。
文氏が日本での拠点を作るべく、笹川氏と会合を持ったのが、あの本栖湖の施設でした。
いまもそのままに残る、第3特別室。笹川氏と文氏が日本における勝共運動の推進を誓ったのがまさにこの部屋でした。
教団側に残されていた写真からは、笹川氏や岸氏が積極的に活動に参加していたことが見て取れます。
1970年には、韓国が中心となって世界のさまざまな反共団体を組織した世界反共連盟・WACL(ワクル)の大会が日本武道館で開かれました。これを取り仕切ったのも勝共連合です。
「WACL大会総裁・笹川良一氏が津波のような拍手とともに登壇」
笹川良一氏
「我々は世界をいでとし、人類すべてを兄弟と考えておるものであります」
演説を目の当たりにした統一教会元幹部の記憶は、いまも鮮やかです。
「笹川氏は胸を叩きながら『私は文氏の犬だ』と言った。驚くべき言葉でした」
▪️宗教団体の票を頼るようになった背景は?大きな転換は「京都府知事選」
教団が掲げる反共の理念に賛同の意を表した政治家に福田赳夫氏がいます。
福田赳夫大蔵大臣(当時)
「アジアに偉大なる指導者あらわる、その名は文鮮明ということである」
福田氏や安倍晋太郎氏の番記者だった政治ジャーナリスト・秋山光人さんは、福田氏が総裁選で、田中角栄氏に敗北を喫したことが宗教団体の票を頼るようになった背景にあると指摘します。
政治ジャーナリスト 秋山光人さん
「非常な金権選挙があって、集票マシーンである建設業界というのはほとんど旧田中派に靡いていた。だから福田さんの政権になるまでは、ずっと冷や飯を食っていて、厳しい立場に清和会(福田派)の人は置かれていたわけですね。
Q. 清和会(福田派)の議員にとっては何でも票は欲しかった?
「それは昔から今までそうじゃないですか」
政治家の信頼を勝ち取るべく、勝共連合が選挙支援に乗り出したのです。
28年間続いていた共産党の地盤に全国の信者が集結。自民党が推薦する候補を応援しました。信者は、共産党を攻撃するビラを大量にまいたのです。
その結果、共産党候補は落選。勝共連合の組織力・集票力が政界に知れ渡ります。
彼らが爆発的な力を見せたのが、1986年の衆参ダブル選挙でした。
国際勝共連合 渡邊芳雄副会長
「中曽根政権のときの衆参ダブル選挙のときが圧倒的だったので。(選挙前)中曽根先生とお会いし、あるいは安倍晋太郎先生とお会いして、どういうふうな選挙をするかというのは協議し合って動いた形ですね」
自民党と勝共連合は支援する候補者や手法まで協議していたといいます。
勝共連合は支援で130人を当選させたと機関誌で喧伝。政界とのパイプが新たな信者の獲得にも利用されたのです。
「(1986年の)選挙当時に日本の金で60億円以上使った。統一教会は恐ろしいです。
(信者が)40人いれば1人当選させることができます」
▪️安倍晋太郎氏、落選を経験 より一層教団側と接近へ 選挙支援のお礼を述べたことも
1986年、統一教会と自民党の関係はさらに深まります。岸・福田両元総理に連なる派閥の会長に安倍晋太郎氏が立ち、ここに安倍派が生まれました。
教団側とのパイプも晋太郎氏に引き継がれます。
1958年に初当選した晋太郎氏には、落選の経験が一度だけありました。その落胆ぶりを知るのは安倍家と近しい、元共同通信の野上忠興(ただおき)さんです。
「自宅に戻ってきたときに、家族全員集めて土下座して『こんなことになった』と『申し訳ない』と泣きながら頭を下げた。後に私にも言っていましたけれども、あれで『俺は人が変わった』と」
1987年に行われた総裁選挙では、竹下登氏と宮澤喜一氏と争いましたが…
記者
「竹下!竹下!竹下!決まった決まった!」
現職の総裁が次期総裁を指名する”中曽根裁定”で政権は竹下氏に。
「いや、ほんとうにさっぱりしましたよ。やるべきことはやった。ベストを尽くした」
しかし、胸中には期するものがあったようです。
元共同通信・野上さん
「(衆院議員選挙)で1回落ちたのが結果的にこういうことになったのかなと。(その後)『やっぱり数だ』と猛烈に動き出すわけですよね。入院中、胆汁を吸い取る管をつけながら全国を回って、二十何人も新人を当選させたりして、数を増やすわけですけどね」
身をもって選挙の厳しさを感じた晋太郎氏は、より一層、教団側と接近していったのです。
勝共連合の会合で、選挙支援のお礼を堂々と述べています。
「日本のために、そして共産主義を排除して、自由主義・民主主義を確立していくために、(勝共連合のみなさんが)働いていただいていおる姿は我々いつも感銘を持って、感謝を持って受け止めておるわけです」
▪️晋太郎氏が世を去るとパイプ消滅のように見えたが…祖父の意志を受け継ぎ、晋三氏へ
ところが1990年代に入り合同結婚式の異様さや霊感商法の悪質な実態が報じられ社会問題化しました。議員のほとんどは表面上、教団と距離を置くようになります。
1991年に晋太郎氏が世を去ると、岸元総理から続いたパイプも消滅するかに見えましたが…
安倍晋三氏
「志半ばで倒れました父・安倍晋太郎の意思を受け継いで、立候補いたしました」
父の死から2年、地盤を引き継いだ晋三氏が初当選します。晋三氏の胸には、安保反対の声と戦い、新安保条約の締結を成し遂げた祖父の姿が焼き付いていました。
著書にも綴られた言葉。
「世間のごうごうたる非難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思うようになっていった。間違っているのは、安保反対を叫ぶ彼らの方ではないか」
高校時代は、安保に反対する教師に対して毅然と胸を張ったことも…
「祖父が安保改定の張本人だったものですから、安保について肯定的な意見を何回か述べたことがあります。先生はじめ、皆さん黙ったんですね。その時に反対している人たちも、こんなもんだなと思ったのを思い出しました」
保守を貫いた祖父を敬い、数の正義を信じた父に学んだ晋三氏。教団側との関係を引き継ぐのは当然の成り行きでした。
官房長官時代、教団関連団体のイベントに祝電を送った記録も残っています。
教団関連団体のイベント 司会者
「岸信介元総理大臣のお孫様でいらっしゃり、現内閣官房長官、衆議院議員の安倍晋三様」
2006年に総理に就任しましたが体調を崩し、1年で退陣。けれど5年後に返り咲きます。
「私の祖父の岸信介もよく晩年、『もう一回総理大臣やったら俺はもうちょっとうまくやるけどね』と言っていたんですね。今こそ私は身を捨てて、もう一度挑戦すべきではないかという決意をしたのが、大体おととし(2011年)の終わり頃くらいでしょうかね」
祖父の遺志を受け継ぐ覚悟でした。そして最初の参院選に向け、統一教会幹部との面会で選挙支援について話し合ったのです。
2013年、統一教会からの選挙支援を確認したという安倍元総理。総理就任後、初の参院選でした。
政治ジャーナリスト 秋山光人さん
「本当に選挙は大好きな人だったですね。第2次安倍政権が戦後史上で最長の政権だったわけですけど、その秘訣というのは、やはり選挙に勝ったことですね。常に勝ち続けると」
飽くなき執念があったと言います。
政治ジャーナリスト 秋山さん
「もっとすごいのは、彼(晋三氏)は3期目も視野に入れていたと思いますよ。あんまり人には言ってないけど彼は。漏れ聞いたことありますね」
▪️自民党派関係断裂宣言 一方で連合副会長は「断絶宣言を解除してもらいたい」
統一教会と、岸・安倍三代の半世紀をこえる結びつき。その延長に描いた晋三氏の野望。
それを阻んだのが教団関連団体のイベントで流された映像です。
安倍晋三元総理(2021年9月)
「韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁をはじめ、皆様に敬意を表します」
教祖・文鮮明氏の妻にして教団のトップ、韓鶴子氏を称える安倍元総理の言葉が、信者の息子・山上徹也被告を、凶行に駆り立てました。
2022年7月8日、安倍元総理が銃撃されたのです。
事件をきっかけに、初めて大手メディアは教団と政治家との結びつきを取材し、批判的に報道。長年にわたり、教団からの支援を受けてきた自民党は、ついに彼らとの関係断絶を宣言しました。
国際勝共連合 渡邊副会長
「相当の覚悟を固めなければいけないと思いましたし、涙が出ましたね。そういう理不尽さみたいなものがこらえきれないというのはありました。早く"関係断絶宣言”を解除してもらいたいなという思いは常に持っています」
解除命令は出されるのか。一方で、支援を受けた政治家たちは、貝のように沈黙したままです。
子どもの頃からのニュースの中の政治家や社会の雰囲気と、現在の状況がだいぶつながりました。
そしてなぜ「敗戦国」になり、なぜ「先進国入り」したのか。
そして党名とは矛盾するような政策とその方向性をしれっと変え、国民という奴隷を手放さない政策の理由も。
そこには、植民地主義的な価値観が根強く姿かたちを変えて生き延びているからのような印象を受けました。
だからいったん手に入れた権力は、子々孫々手放そうとしないのでしょうね。
時々、このニュース記事を読み返すことにしましょう。
半世紀ほど経ち歴史としてまとめられると、過去が裁かれる時代へと移り変わることでしょう。
そしてこのような政治を繰り返さないことを考えるのは、今の時代に生きる人の責任ですね。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。
あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら。
「骨太」についてのまとめはこちら。
失敗とかリスクについてのまとめはこちら。