記録のあれこれ 193 参道脇の昭和2年の記念碑と「平和への道標」

朝のノーベル経済賞のニュースからちょっと寄り道をしましたが、私がなぜブログを書きながら頭の整理をしているのか少し課題が見えたような気がしました。

 

20代の頃の植民地主義から新植民地主義へと変わっていったあの当時はどういう時代で何が見えていなかったのか、自分が生きてきたことの責任を考えるという課題です。

そしてそのためには、「〇〇主義」でわかった気にならないようにさまざまな生活の記録を読んでみようとあちこちを歩いているのかもしれません。

ちょっと偉そうにですけれど。

 

明治時代というのは人類の為にとヒトの概念が広がり、日本の各地に私財を投げ打って郷土の先覚者となった人が生まれ、行基さんの時代からの政争と動乱、飢饉と災厄などの混迷をなん度も乗り越える経験や技術や知識が一気に普遍的なものへと変わった時代になったように見えます。

さらに、戦後は出稼ぎや移民に頼らずにその土地で暮らし、そして社会階層も意識しなくて済む社会へと変わっていきました。

本当に驚異的に変化する時代でした。

 

ところがなぜ最近は、国内で「富裕層」とか「セレブ」と自称する人が増えたのだろう。

ノーベル委員会の「国家間の所得格差を是正することは現代における最大の課題のひとつ」と植民地主義に目が向けられるようになったことが、自国内でも必要な時代になったといえそうです。

 

散歩の2日目は歩きながら、このことをつらつらと考えることになりそうですね。

 

*参道が道路に横切られた神社*

 

朝は雲の中だった富士山が麓まで見えるようになりました。

7時55分にホテルを出て、黄瀬川右岸の高台にある神社の脇の道を歩くと交差点の反対側に鳥居と何か石碑が見えました。

 

道路を渡ったところにある鳥居は、道をはさんで城山神社の参道のようです。黄瀬川に沿って南北に通っている城山通りに対して東西への道が新たにつくられて、参道を横切る形になったようです。

 

その鳥居の横に旧字体で「記念碑」とありました。

何の記念碑だろうと裏へ回ってみると、いくつか記録がありました。

 記念事項

日露戦没戦病死者氏名  〇〇〇〇、〇〇〇〇、〇〇〇〇

日獨戦没戦死者氏名   〇〇〇〇

田地預口改正 明治三十四年地主小作ノ協定ニヨリ⚪︎(読めず)預口四百五十壹石 

       壹斗五升ヨリ七十八石九斗五升ヲ軽減ス

水路改脩   明治三十五年隧道入口ヨリ蓮華寺前ニ至ル改脩

神社合併   大正元年諏訪八幡鳴澤女ノ三社ヲ合併城山神社ト奉⚪︎(読めず)ス

保安林編入  大正十三年七月一日水源涵養ノ為愛鷹山御料地桃澤森林三百町歩ヲ編入

       セラル

道路改良   明治四十四年八反田道路開鑿

       大正九年同十秊下長窪佐野線改脩

橋梁改築   大正十五年中橋窪田橋工事施行

       昭和二秊山岸橋工事施行

昭和二年四月建之 下長窪區

 

明治から昭和へ、どのような思いがあってこの記念碑が建てられたのでしょう。

この地域の生活や雰囲気はどんな感じだったのでしょう。

 

それにしても「開鑿(かいさく)」とか、昔の人は難しい漢字を使いますね。これもまた、江戸時代の庶民の識字率の高さの遺産でしょうか。

このわずか10行ほどを書き写すのに、漢和辞典を引きながら半時間ほどかかりました。

どの石碑でも惚れ惚れするのが、こうした難しい字も正確にそして美しい書体で彫られていることです。腕の良い方がどの地域にもいらっしゃったのですね。

 

そして1924年(大正13)、一世紀前にはすでに「水源涵養」という用語が使われていたようです。

 

*現代の祈り*

 

その反対側に何か書かれたものがあり、近づきました。

   平和への道標

 この城山の忠魂碑に祀られている方々は、皆さんの美しい故郷(ふるさと)の山や河を守り、日本の平和と豊かな暮らしを願いながら、幾多の戦争のなかで亡くなられた、下長窪出身の三十四柱のご英霊です。

 今日の平和を思うとき、私たちはここに眠る方々を決して忘れません。

 この尊い御霊の心を受け継いで、感謝の心を持って、二度と戦争の無い平和な国をめざして、一日一日を大切に暮らしましょう。

  平成二十五年十二月吉日   下長窪戦没者遺族会

 

 

 

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