城山神社のあるあたりは黄瀬川のすぐそばですが、川よりもかなり高い場所に街や田畑が続いています。
水路があり10月でも豊かに水が流れる水音が聞こえてきますが、地図で見るとこのあたりは愛鷹山麓の川から水を得ているのでしょうか。
蔵や小さな堰のあるゆったりした下り坂を歩いていると、西側から支流の美しい桃沢川が流れていましたがやはり取水するには低い位置のように見えます。
この黄瀬川の右岸は黄瀬川とその支流の水は得られずに、山からの水に頼った高台の農地なのでしょうか。
ふと金木犀の香りがしてきました。そういえば3ヶ月ほどの猛暑で、昨年はほとんど金木犀の存在を忘れていました。
このあたりから城山通りには忽然と歩道がなくなり、あわてて脇道へと入りました。
少しずつ黄瀬川との高低差が少なくなってきた場所に一面のコスモスが咲いています。
その向こうあたりが、目指す場所のようです。
*牧堰水門*
広場のような場所の向こうから水の音が大きく聞こえてきます。
間近に黄瀬川の川面が見えて、二段になって水が落ちています。
そして直前に渡った水路はここから取水されていて、「牧堰水門」「門池牧堰用水運営委員会」の立て札がありました。
2021年11月に訪ねた沼津市明治史料館で、地図で見つけた水色の池が門池で、この牧堰から取水されていることを知り、いつか訪ねてみたいと思っていました。
17世紀初めの黄瀬川右岸下流域の新田開発の歴史には大事な場所のようです。
あの日に購入した「牧堰・門池用水 水のめぐみと人びとのくらし」によると、鎌倉時代初頭、この辺りで力を持っていた牧氏が黄瀬川に堰を築いて用水を引いていたことから「牧堰」という名になった説もあるとのことです。
牧堰の成立
「牧堰」の名が史料において初めて出てくるのは慶長7年(1602)の「まきせき之割」である。この年、大久保忠佐の家臣関久左衛門が、牧堰築堰にあたっての分担間数を書き付け、築堰を命じた。少なくとも、江戸時代初期には「牧堰」が成立していたことがわかる。ただし、この文章で「まきせき」と既に記されていることから、前述したようにそれ以前に「牧堰」と呼ばれる堰が成立していたとも推測できる。
その後、「正保2年(1645年)旱損緩和の為、黄瀬川を鮎壺の上流約200mほどの地点で堰き止めてつくった牧堰を本用水とし、門池からの水を補助用水とする牧堰門池用水が成立」して愛鷹南東麓を潤すようになったようです。
ただし、その後も水争いが起こったことが史料には書かれています。
牧堰門池15ヶ村と本宿村の争い
農民にとって「水」は命であり、水を流す用水路はまさに生命線といえるものだった。旱魃の時には、一滴の水を求めて村の間で争いが起こった。江戸時代、牧堰門池15ヶ村と本宿村との間で、元禄期と享保期の2度に渡って用水をめぐる争いが行われた。
現在の東海道新幹線の北側が15ヶ村で、南側が本宿村でしょうか。
そしてその先に東海道本線と東海道新幹線にはさまれた田毎の富士が見える美しい水田地帯は、かつて昭和30年代までは湿田で腰まで浸かりながらの農作業をせざるをえない排水との闘いの地だったことを知ったのが、3年前のその散歩のときでした。
黄瀬川の左岸は湧水に恵まれた場所もあれば芦ノ湖から水を引かなければならなかった場所もあり、右岸には黄瀬川から水を引くことで新田開発が行われた地域があった。
そしてそのすぐ西側には、浮島ヶ原という排水の悪い地域もあった。
だいぶこのあたりの地形や水の歴史を思い返すことができるようになりました。
「水のあれこれ」まとめはこちら。
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