念願の牧堰の取水口を訪ねることができて満足し、そこから南西へと流れる水路沿いに少し歩いたあと、県道22号線が黄瀬川にかかる大きな橋を渡りました。
振り向くと、秋晴れの中、富士山は雲の中でした。刻々と雲が変化するので、富士山全景を見ることができるのも「幸運」の一つですね。
橋の欄干には「牧堰橋」とありました。
ここから数十メートルほど上流に先ほどの牧堰があるのですが、川が少し蛇行して既に見えません。
そして牧堰のあたりでは川と河岸にそれほど高低差がない平地のような場所だったのに、このあたりでは右岸が数メートルほど高くなっています。
そして下流側はまた河岸と高低差がそれほどない緩やかな流れで、120mほど下流に鮎壺の滝があります。
下流の複雑な地形から、右岸側の台地へと水路を引くのに適したあの場所だったのだと、改めてわかりました。
左岸側の静かな住宅地と小さな商店街を南へと歩くと、2021年11月に新幹線三島駅で下車して歩いて向かった下土狩駅が見えてきました。
ここから二駅の沼津駅まで電車に乗ります。
*「長泉歴史探索マップ」*
少し時間があったので駅周辺をぶらりと歩こうと思いましたが、案内図にまず引き込まれました。
長泉歴史探検マップ
長泉には、今から2万5千年以上の昔から人々が暮らしていました。
町内には彼らの残した生活の跡が数多く残っています。
観光案内図ですが、その地図は愛鷹山麓の詳細な正確な地図で、古墳や遺跡、寺社や城址そして用水路が赤い印で書き込まれています。
そして2022年2月に深良用水の神様を訪ねた時、翌日に歩いた窪の湧水(富士湧水池)も書かれていました。湧水が美しい長泉町です。
ジオパークとは・・・
私たちの足元にある大地(ジオ)を、学び・遊び・体験することができる自然公園(パーク)です。
風景をジオパークという視点で生活している場について学ぶ機会がある、正確な地図を見る機会がある。
半世紀前には思いつくこともなかった「観光」ですね。
等高線がびっしりと書き込まれたその詳細な地図にしばらく見入ったのでした。
*「下土狩駅の歴史」*
その近くにもう一つ案内板がありました。
三嶋は近年ひらけたる
豆相線路のわかれみち
駅にはこの地の名をえたる
官幣大社の宮居あり
この鉄道唱歌に歌われる三嶋駅とは、現在の下土狩駅をさしたものである。
明治2年(1869)、明治政府は東京〜京都間の幹線鉄道建設を決定した。初め、路線は中山道案であったが、明治19年(1886)東海道案に変更された。測量調査の結果、箱根山にトンネルを通す工事は難しいとの判断から、国府津から沼津間は、山北・御殿場経由のルートを採用し、明治22年(1889)、現在の御殿場線を路線とする東海道線が開通した。
東海道線開通時、佐野駅(現在の裾野駅)と沼津間に駅はなかったが、請願・陳情運動のすえ、明治31年(1898)6月15日に現在の下土狩駅が三嶋駅(官設三嶋停車場)として開設した。これにあわせ、豆相鉄道も敷設され、下土狩駅(旧三嶋駅)は、伊豆方面へ乗り入れる計画であったが、路線用地の無償提供を条件に、下土狩駅(旧三嶋駅)を基点として、敷設された。
東海道線は開通当初は単線であったが、輸送の円滑化のため複線化も進み、急行や寝台列車、超特急「燕」が運転され輸送量が増大した。
当時、長泉の特産品に甘薯(サツマイモ)があり、下土狩駅(旧三嶋駅)から、出荷されていたため、「三嶋甘薯」と呼ばれ、大阪・京都方面に多く販売され、駅の貨物ホームは芋俵で埋め尽くされたということである。また、駅周辺は、伊豆方面の玄関口として、旅行客、商人、著名な文豪など様々な人が行きかう交通の主要中継地として栄えた。
昭和9年(1934)、丹那トンネルの開通に伴い、東海道線は国府津から熱海を経て、沼津に結ばれ、同年12月1日に現在の三島駅が開設し、国府津から御殿場を経て、沼津にいたる路線は、御殿場線に、旧三嶋駅は下土狩駅となった。これにあわせ、伊豆へ向かう鉄道も下土狩ー広小路間が廃止された。
太平洋戦争の最中の昭和18年(1943)、御殿場線は、上りのレールが取り外され、再び単線となった。取り外された線路は現山陽本線敷設のための資材として転用された。
鉄道により、街の風景は大きく変わりますね。
今は小さな可愛らしい駅舎があり、この案内板を読んでいた時には風の音と鳥の囀りしか聞こえなかったのですが、かつては物や人が行き交う賑やかさだったようです。
思わず「寂れた」と思いたくなるのですが、新田開発や用水建設の歴史あるいは1707年(宝永4)の宝永大噴火や1850年代の安政の大地震の歴史を知ると、この地域の美しい水田地帯が健在なのもまた有り難い風景でなんと落ち着いた街だろうと思えてきます。
竹原村の北、黄瀬川の左岸に位置し、北は中土狩村。寛永四年(一六二七)枝郷の与惣兵衛(よそうべえ)新田が成立している。寛永改高附帳では田高六五四石余・畑高一六一石余。慶安元年(一六四八)の検知帳(下土狩区有文書)では相模小田原藩領で、反別は田五一町余・畑屋敷四〇反余。その後宝永五年(一七〇八)幕府領となるが、享保二年(一七一七)小田原藩領に復し、安永六年(一七七七)以降は幕末まで沼津藩領であった。
*とがりとなめり*
そうそう、ずっと「土を狩る」ってどういう意味だろうと思いながらそのままにしていました。
神社周辺をよく見ると、でこぼこした地形(溶岩塚と呼ばれる盛り上がった土地)が何か所見られる。下土狩の地名は土地の尖りが由来という説もある。数多くある鳥居も珍しい。
そして「長泉なめりの名前の由来は?」もありました。
実は納米里は溶岩台地なのですが、土壌に覆われてなだらかで滑らかな地表をしていることからなめりとつけられたそうなんです。そうです。尖っているから土狩(尖り)なんです。溶岩の小丘が重なり合ってごつごつとした複雑な起伏を見せ尖った土地状態から名付けられたんだそうです!
長泉なめり、おもしろい名前だけれど漢字で書くと「米を納める」だから新田開発に関係しているのかと想像していましたが、尖りと滑らかだったのですね。
溶岩台地を開墾し、水が染み込みやすい土地に用水路をつくり新田開発をしてきた地域ゆえの地名だったことを知りました。
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