牛臥海岸の排水門を検索したときに見つけた「横浜水道みちを行く」という先人の記録の中に、「昭和中期の香貫・内膳堀の図」がありました。
それを見るとその堰下の水神様のあたりから取水した水が、狩野川左岸の河口の地域をくまなく用水路で潤していたようです。
どのような用水路だろうと検索してみると、沼津市の説明がありました。
「香貫用水が令和4年世界かんがい施設遺産に登録されました」
2022年12月14日更新
国際かんがい排水委員会(ICID)は、10月6日(木曜日)にオーストラリア・アデレードで開催された第73回国際執行理事会において、ICID日本国内委員会が候補施設として申請した香貫用水を含む国内3施設を、世界かんがい施設遺産として登録することを決定しました。
この国際かんがい排水委員会と世界かんがい施設遺産について、この数年、川や水路や干拓地を歩くようになって初めて知りました。
そして「灌漑」とともに「排水」も大事だと、実際に歩くことで知ることになりました。
香貫用水について
基本情報
名称:香貫用水
使用開始年:1620年〜1629年頃
かんがい面積:7ヘクタール
1620年以前まで、香貫(かぬき)地区の農業は降雨と溜池のみを水源としており、慢性的な水不足に悩まされていました。そこで、上香貫(かみかぬき)村に住んでいた植田内膳(うえだないぜん)は近隣を流れる狩野川(かのがわ)を取水口として用水路をつくる計画を立て、事業建設こうじに取りかかりました。用水路は香貫山北側を東から西へ延び、矢崎鼻(やざきのはな)から上香貫へ延びる上堀(かんぼり)、下香貫(しもかぬき)へ延びる下堀(しもぼり)がつくられました。
工事においては、取水口に石堰を築いて水位を高めるとともに、砂土の用水路は水が染み込むのを防ぐため、地盤に炉灰を混ぜ合わせてつくるなど、困難が伴いましたが、引水に成功した結果、香貫地区には干ばつがなくなり、「香貫二千石」といわれた農業発展の礎となりました。
現在では地域の市街化に伴い、かんがい面積が減少している一方、大雨時等排水路としての地域防災の役割が強くなっており、暗渠等の改修工事が進んだ結果、かつての面影は見られなくなりつつありますが、今日までの約390年の間、地域において脈々と引き継がれています。
狩野川左岸の河口付近は海岸沿いの住宅地に見えたのですが、航空写真に切り替えてみると確かにところどころ田畑が残っています。
そしてかつては碁盤の目のように張り巡らされていた用水路の一部が、地図でも水色の線で描かれています。
ぜひ、歩いてみたいものです。
そして内膳堀というのは、この用水路開削を進めた方の名前だったのですね。
やはり江戸時代には土木技術や知識が相当な水準にあったと思うことがまた増えました。
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