記録のあれこれ 197 「鮎供養碑」

磯部頭首工の広場の先は分水路になっていて、その東側の水路沿いに歩く予定です。

分水されるあたりは藪の中でよく見えなかったのですが、近くにまた大きな石碑がありました。

 

近づいてみると「鮎供養碑」でした。

 

鮎は別名香魚(*)とも呼ばれこの相模川の清流に銀鱗を輝かしその独特なる香りと淡白なる風味とは吾等の食膳に珍重玩味せらるるものである

この名魚を保護し増殖増産をはかるには漁業権を確保し漁場を管理し密漁乱獲の防止をしなければならないと有志相はかり大正七年相模川漁業組合を設立し漁業権の獲得をせんと屡々陳情を繰返しその熱情により昭和七年時の農林大臣より專用漁業権の認可を受け組合員百九十余人数回に亙り琵琶湖産稚鮎又は海産稚鮎を放流し一致協力漁場の管理と魚族の増殖保護に勉めた昭和十六年組合を相模川漁業会に改め組織する次で昭和二十六年漁業会相模川漁業協同組合に改組織組合員三百四十余人昭和二十七年他河川組合と共に海産稚鮎協会を設け稚鮎の放流を慣行し今日に至る爾来星霜五十年その生体を吾等に捧げし数 無数吾等は茲に供養塔を建立しその冥福を祈るものである

昭和四十二年三月吉日    相模川漁業協同組合

(*全ての「魚」は旧字)

 

 

環境に配慮するという概念が常識になり、あるいはそれぞれの種が観察され分類されその生活史の研究も進んで、国内でも流域が違えば「外来種」だと一般の人でも知るようになった現代からすると、「ああ、なんという雑な時代だったのだろう」と思ってしまいそうですね。

 

でもそうした「後世では小学生でも知っているようなこと」が、知識になり常識になるまでにはその前の時代の長い葛藤や失敗と歴史があるのだと、最近では見えてくるようになりました。

 

今に至るまで「無主物」という感覚を考える必要がある時代であり、さらに当時は資源管理の必要性も認識されながらも人口が増えて国民がタンパク質を得られるように、そして増えた人口の誰もがさらに経済的な豊かさを享受できるようにと資源を取り尽くしていくような時代へと入ったのでした。

 

それでも、1918年(大正7)にはすでに密漁乱獲を防ぐために漁業組合で漁場管理をするという方向性があったようです。

漁業に従事していた方々が「魚をとりすぎた」としたら、それを求める社会があったからですね。

 

魚の供養碑というのは、漁業の歴史の記録ともいえそうです。

次はどんな供養碑に出会うことでしょうか。

 

*おまけ*

 

あのピンクの卵塊をみるとゾクゾクするのですが、人間の都合で勝手に連れてこられそしてリスクもあるので忌み嫌われるようになった生物の供養塔は果てしない数になりそうですね。

 

 

 

 

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