水の神様を訪ねる 107 木曽三川公園と治水神社

養老線多度駅で下車しました。対岸に念願の木曽三川公園のシンボルタワーが見えます。

駅前は山に向かって上り坂、そして反対側の水田地帯へは下り坂でした。揖斐川河岸段丘に沿って養老線は走っているようです。

踏切を渡り坂道を下ると、静かな住宅地の中に美しい鎮守の森が見えました。尾津川に沿って、二つ尾津神社があるのはどんな歴史なのだろうと思いながら歩いていると急に平地になりました。揖斐川にかかる油島大橋が見えて、シンボルタワーが近くなってきました。

 

その県道23号線に出るまでに、もう1箇所立ち寄ってみたいところがありました。

水田地帯にある多度北小学校のそばに、水路で囲まれた神社が描かれています。

内母神社で、美しい参道と静かに流れる水路にカワセミがいました。

「ないも」神社と呼ぶそうで、社殿はため息が出そうな美しさです。棟梁の腕の良さがわかる建築がそこかしこにある国ですね。

 

県道23号線に入りました。幹線道路でしょうか、大型車がひっきりなしに通り、川風もあって時々吹き飛ばされそうです。歩く人もいない道を、大きな白い橋とシンボルタワーを目指して歩きました。稲刈りのとっくに終わった広大な田んぼと青い空しかない道です。

近そうですが橋まで1kmほどあり、なかなか近づきません。ようやく橋が近づいてきて、ちょっと後悔しました。車ならぐんぐんと上る勾配ですが、ちょっと足がすくみそうです。

相変わらずトラックの風圧に煽られながらへばりつくように上がると、悠々とした揖斐川の流れが見えました。

 

せっかく美しい流れを見ることができる橋の上ですが、川風とトラックが通過するたびに振動で足元が揺れるので生きた心地がしないのでそそくさと渡り、ようやく木曽三川公園の敷地に到着しました。

 

いざ、シンボルタワーの上からかつての輪中の地域を一望しようと向かうと、なんと令和7年2月末まで展望台の工事中です。計画を立てる時に見逃したのでしょうか。またまた痛恨のミスです。

 

揖斐川にかかる油島大橋から200mほど歩くともう長良川大橋で、長良川の美しい水面が見えました。

ここから揖斐川長良川を隔てる油島千本松締切堤が、長良川河口堰の先まで続いています。

念願の場所に立つことができました。

 

*治水神社へ*

 

締切堤の始まる場所に鬱蒼とした鎮守の森があり、静かに社殿がありました。

想像とは違い、茅葺屋根と茶色い木の質素なそれでいて美しい建物でした。ここから真っ直ぐ続く締切堤を見守るように建っていて、絢爛豪華ではないこうした造りがふさわしいと思う場所です。

そしてここも隅々までどなたかが日々掃き清めてくださるようです。

 

宝暦治水由緒書

 

 昔この地方は木曽三川に囲まれ、木曽川より長良川揖斐川と、それぞれ1メートル余り川床の差があり低くなっていた。その為土地の低い美濃側は絶えず水害を被り、徳川時代、特に慶長から宝暦にかけては毎年氾濫して、治水工事の嘆願が続き、ついに幕府は宝暦三年(西暦一七五三年)十二月二十五日、西国の雄藩薩摩藩にお手伝い方を命じた。

当時、借財に苦しんでいた薩摩藩ではあるが藩の存亡を懸けその命に従うこととなった。総奉行に平田靱負正輔(ひらたゆきえまさすけ)を任じ年が明けて一月二十一日江戸より次いで二十九日には薩摩より総勢九百四十七名を出発させた。途中大阪で工事費を調達し二月二十七日四の手にわかれて工事に着手、水との苦闘は難工事の連続、その上度重なる洪水に工事費ははるかに超過し、幕府側の迫害や侮辱、工事の邪魔等に耐えかねて自決した者五十三名、疫病の流行で病没三十三名にも及んだ。総奉行は藩主重年公に工事竣工の報告を副奉行に託し、全責任を負って宝暦五年五月二十五日享年五十二才でこの世を去った。

幕府の命令とはいえ三百里も離れた異郷の地を水害苦難から救った薩摩藩の人達の血と汗と涙の結晶は、今もこの地に語り継がれて薩摩義士の偉業として称えられる大治水事業であった。

 この治水神社は平田靱負を祭神とし、その時亡くなられた八十余名の方々をお祀りして感謝の誠を捧げ願望成就の神として崇敬されている。

 

 

木曽三川の古地図を見ると、現在の大垣や岐阜のあたりから下流に向けて、まるで島々が浮かんでいるかのように複雑に輪中の間を川が流れています。

現代の地図を見ると、岐阜羽島駅の近くにある薩摩工事義歿者の墓のように薩摩藩士に関係すると思われる場所をこの広範囲な流域に見つけることができますが、なんと過酷な使命を負った時代だったのでしょう。

 

 

締切堤防の上の参道を歩くと、右手には揖斐川、左手には長良川が流れています。そして長良川からまたわずか300mほどで木曽川です。

あの島々のような輪中が、今はこうして「大きな川が3本近づいて流れている場所」になった。

江戸時代の土木技術や知識の凄さとともに、過酷な時代背景があることを忘れてはいけないと思いながら鳥居をくぐりました。

 

 

Wikipediaの「治水神社」によると、1927年(昭和2年)に起工1938年(昭和13年)に建立とありますが、当時のどんな時代の雰囲気がこの治水神社を建てようという思いに至ったのでしょう。

 

 

 

「水の神様を訪ねる」まとめはこちら

失敗とかリスクについてのまとめはこちら