「海抜2.6m」と表示のある道沿いの静かで落ち着いた住宅地を歩くと、低い場所の水田地帯の先に公園と建物が見えてきました。
目指す「輪中の郷」で、観光バスが停まっていてどうやら小学生が見学にきているようです。
「長島」は木曽川と長良川に挟まれた河口付近の長細い場所で、ここが最初に気になったのは私が生まれる前に父はどのあたりに災害救助のために派遣されていたのだろうと地図を眺めていた頃でした。
そのうちに、30年ほど気になったままだった長良川河口堰を訪ねて、2021年秋にこの地を歩きました。
その時、地図で「輪中の郷」を見つけて、ここも輪中だったのかと繋がってきました。
ほんと、現在の地図を見るとどこが「輪中」だったのかなかなか想像がつかないものです。
3年ぶりにまた、長島を歩くことができました。
「輪中の郷」に入るとすぐ桑名市の説明が書かれていて、この日の朝下車した多度駅も桑名市だったと、改めて思いました。なんといっても揖斐川と長良川を渡ってここに来るまでに3つの県境を歩きましたからね、またここが桑名市だったとは。
*長島町と輪中*
長島町についての説明がありました。
ひとつの町で一つの輪中を形成する町です
三重県桑名市長島町は、伊勢湾の最奥に位置し、東北部は愛知県、北部は岐阜県と接し、三重・愛知・岐阜の接地部にあります。また近鉄名古屋本線やJR関西本線のほか、東名阪自動車道、第二名神自動車道(伊勢湾岸道路)、国道1号線、国道23号線が横断しており、現在でも交通の要衝となっています。
長島町は木曽三川が土砂を堆積させたデルタ地帯で、海抜0m地帯にあり、周囲は木曽川・長良川・揖斐川と伊勢湾に囲まれ、一大輪中を形成しています。面積は31.73平方キロメートル(うち陸地部分は13.97平方キロメートル)で東西の最広部は約2.5キロメートル、最狭部約0.75キロメートル、南北は約12キロメートルの細長い瓢箪状の島です。
過去には洪水に苦しみましたが、現在は巨大な堤防に囲まれ、交通便利な水郷の町を形成しています。
「輪中とは」という説明もありました。
水防と治水の共同体のある地域を輪中といいます
太古、木曽三川は上流から土砂を運び、濃尾平野を形成しました。そのため、豊富な水と豊な台地に恵まれた木曽三川下流域は、数千年も前から多くの人々が生活を営んできました。しかし時として増水し、暴れ、氾濫するこれらの川に人々は、堤防を築き、自らの生命や財産を守ってきました。このような時代が長く続くと川底は新しく上流から流れ込んでくる土砂のために徐々に高くなり、また洪水が起こりました。その繰り返しが、川の水面よりも地面が低くなる輪中特有の地形を作り出しました。このため一度堤防が決壊するとその地域全てが水没し、堤防が修復されるまで長期間に渡って冠水するので、地域を守るために全ての人々が共同で堤防を守るための組織を作り上げました。これが輪中です。またこの組織では農耕や生活に使う大川(木曽三川)の水を共同で堤内に入れたり、排水することも行いました。
このような簡潔でいてくまなく状況や生活が説明された文章に出会うのも、資料館や博物館に足を運ぶ醍醐味ですね。
頭で理解したつもりになっていたことに、また気付かされます。
「長島の歴史」もありました。
一向一揆と洪水との戦いの歴史
長島の地名が文献に登場するのは、平安時代末期からです。しかし土地の形成上から考えるとそれよりもはるか以前から人々はこの地に住んでいたものと思われます。
鎌倉時代にはこの頃に寺基(じき)を定めたとされる寺も出てきていますが、寛文年間には前摂政藤原道家が鎌倉幕府との抗争で敗れ長島に流されています。
室町時代になると交通の要衝としての長島は群雄が割拠し、伊藤重晴が支配したり、蓮如の子蓮淳が長島にきて浄土真宗の教義の拡大を図ったりし、以降この地方の中心として繁栄の一途をたどりました。しかし元亀・天正年間の織田信長による長島攻め(長島一向一揆)により、数万の門徒・農民が虐殺されました。なお、このときの中心寺院であった長島願證寺は現在は長良川底に沈んでいます。この後、長島は滝川一益による支配や羽柴秀次、織田信雄などが城主として治めました。
江戸時代になると菅沼氏が藩主となり長島を治めましたが、その後桑名藩による兼領時代となり、元和9年(1623)長島は、鰻江川より北は一輪中としてまとめられました。しかし東海道七里の渡しや佐屋の渡しは長島領内を縫うように通り、交通の要衝として栄ました。また松平氏が治めていた元禄2年(1689)には松尾芭蕉が長島を訪れ、この頃までに長島の神殿開発も伊勢湾に向け、ほとんど終わりました。
元禄15年(1699)には松平氏に替わって、増山氏が長島藩主となり、以降7代150年以上を二万石の領主として治め増田。この間には宝暦年間(1753~55)に幕府が薩摩藩に命じたお手伝い普請(宝暦治水)が行われた李、福豊(現在の伊曽島地区)の県民が幕府に洪水で流失した土地の再開発を願い出たりしました。
明治時代になると長島藩は長島県とな李、その後三重県に編入されますが、明治20年からはヨハネス・デ・レーケの計画図に基づき、木曽三川の分流工事が行われて、ほぼ今日の長島の地形が完成しました。
第二次世界大戦後、楠・長島・伊曽島の各村は合併し、長島町が誕生しましたが、昭和34年9月26日伊勢湾台風により、全町水没、甚大な被害を受けました。その復旧には国・県・町が一体となり工事を行いました。昭和38年には町内最南端で温泉が湧出、以降近郊農業と観光の町として現在にいたっています。
*「輪中のでき方」*
古地図を見ると、かつての河道が定まらない流れの中に大小いくつもの輪中が複雑に描かれています。
なにがどうしたらこのような場所になるのか、なかなか知る機会がなかったのですが、ここの展示にありました。
長島の土地は、木曽三川が伊勢湾に注ぐところに上流から運ばれた土砂がたまったものである。そしてその上流の部分からしだいに一つずつ堤防で囲みながら開拓されていった。
1. 自然堤 人々は川岸の小高いところに住んだ。
2. 尻無堤(しりなしづつみ) 自然堤を繋いで上流を締め切る堤防を作った。
3. 潮除堤(しおよけづつみ) 海水の逆流を防ぐため川下部に堤防を作った。今の輪中のもとの完成。
4. 懸回堤(かけまわりづつみ) いくつかの小さな輪中を取り囲んで大きな輪中を作った。
5. 新田開発 耕作地を増やすために輪中の川下を堤防で囲っていった。
6. 長島町の完成 河川改修により木曽三川が完全に分流し、長島輪中が一輪中となった。
気が遠くなりますね。この間に、何度も洪水で流されながらも輪中を形成していった歴史が、この木曽三川の中流から下流域にたくさんあったのですから。
*宝暦治水から木曽三川分流工事へ*
宝暦治水から木曽三川分流工事について、ここでも展示がありました。
明治の河川改修と長島
江戸時代に水害に苦しんだ輪中の農民は、度々幕府に嘆願しました。御手伝普請(おてつだいぶしん)としては宝永7年(1710年)、寛延元年(1748年)などに行われ、宝暦3年(1753年)から宝暦治水の大工事においては美濃の天領や高須藩は、大きな恩恵を受けましたが、長島藩にとっては、あまり大きな効果がありませんでした。明治時代になり、富国強兵や文明開化の政策もあり、また岐阜県の有力農民や当時の名古屋県の大参事丹羽賢の進言により、ようやく近代的な治水技術を身に付けたオランダ人「ヨハネス・デ・レーケ」を招聘することになりました。ヨハネス・デ・レーケは明治11年(1878年)から明治13年にかけて木曽三川の基礎調査及び水源調査をおこない、明治19年には、木曽三川分流工事の計画を完成させました。
工事は明治20年(1887年)から始められました。その主な工事内容は、次の通りです。
2. 佐屋川を廃川にする。
3. 油島の洗堰(あらいぜき)を完全に締め切る。
5. 青鷺(あおさぎ)川を締切る。
この工事にともなって、木曽川から桑名港への船舶の通行が不可能になったため、船頭平(せんどひら)に閘門が造られました。
しかし長島にとっては、この工事により水害の回数は激減しましたが、長良川を長島の堤内に引き込んだため、当時四百町歩あった長島北部地区は、二百五十町歩に減ってしまいました。そして住居や農地を失った人々の中には、北海道などに開拓にでた人もいました。この木曽三川分流工事は明治45年まで4期に分けて続けられ、総事業費974万円(当時)の巨費が費やされました。
(強調は引用者による)
上流から下流まで川を制するというのは本当に大変なことですね。
この直前に歩いた船頭平河川公園周辺から長島へのあの美しい田園風景でしたが、治水と引き換えに自分の土地を離れなければならない方達もいたとは。
輪中の郷の外の展示を見学していた小学生たちが館内に入ってきました。
こんなに充実した記録や展示で自分たちが生活する場所について知ることができるのは、ほんと幸せですね。
館内をぐるりと見学して、満足してまた歩き始めました。
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