米のあれこれ 114 輪中の農業

「輪中の郷」を出ると、近鉄長島駅までまた3.1kmほどを歩きます。

 

今回の遠出の出発直前まで「駅から遠いからどうしようか、コミュニティバスは本数も少ないので時間が合わなさそうだし歩くしかないけれど」と悩んだ「輪中の郷」でしたが、展示に圧倒され訪ねてみて本当に良かったと疲れも飛びました。

先ほどまで見ていた同じ田園風景のはずが、なんとも有り難い景色に違って見えます。

 

水路に沿って歩き始めると「海抜マイナス1メートル」の表示がありました。

オランダの話は遠い外国の話だと思っていたのですが、日本各地に同じ状況がありますね。

 

 

*湿田での農業*

 

稲刈りの終わった田んぼの一角に、高い畝のある畑がありました。

出かける前に何かの資料で見た畑です。輪中について調べていなければ、特殊な野菜の栽培方法だと思ったことでしょう。

 

「輪中の郷」の展示に説明がありました。

  輪中の農業

 明治中期までは、稲作が中心で畑作については、自家用の域を出ませんでした。これは用水が木曽三川に依存し、排水は自然排水であったのが主な要因です。明治中期になると排水機が設置され始め、裏作に麦、菜種、馬鈴薯などが作付けされるようになりました。

 しかし水田面は木曽三川の川水面よりも低く、度々の地震などで地盤沈下が生じたため、耕作面積を減らしてまでも耕作面をより高くする必要がでてきました。

 

堀 田

水面と水田面の高さに差がなくなった場合、水田は湿田化し、稲の成育に支障を来たします。そのため湿田の一部の土を盛り上げて積み重ねると、掘ったところは水が漬かって細長い短冊系の池ができます。この部分を「掘り潰れ」といいます。また積み上げて高くなった部分を「掘り上げ田」といいます。長島では、輪中の中を縦横に走る水路とこの「掘り潰れ」を利用して田舟による水路交通が行われていました。

くね田

湿田で裏作を行う場合、作物の根腐れなどの対策のため「掘り上げ田」に更に高い畝を作らなければなりませんでした。この裏作の高畝を「くね田」と言います。

「作り方」の写真とくね田の模型が展示されていました。

 

それが目の前にあります。

平均寿命が伸びた現代でもなお頑張って作っても50回の農業ですから、人生が40~50歳だった昔はどうやって「失敗」を伝えながらこうした畑の作り方へと改良していったのでしょう。

 

 

*「輪中とは輪中堤や水防組織を共有する水防共同体を意味する*

 

 

長島輪中をまっすぐに横切るJR関西本線近鉄名古屋線が見えてきました。

長細い広大な輪中ですが、なんとか歩ききれそうです。

2021年に長良川河口堰を見に行くために下車した懐かしい長島駅ですが、遠くから見るとその周辺に石積で嵩上げされた住宅がけっこうあることがわかりました。

 

 

「輪中の郷」の展示にも確かこの嵩上げについて説明があったと、写真を見直してみました。

 輪中の生活

 輪中とは、洪水から集落や耕地を守るため、周囲に堤防をめぐらした共同村落組織です。江戸時代初期に、濃尾平野西部の木曽三川下流域に数多く形成されました。

 昔から木曽三川下流域は、洪水のたびに一面が泥海と化す低湿地帯。この低い土地に住み始めた人々は、川に沿ってできている小高い自然堤防を利用して畑や家を作り、まわりの低湿地を利用して稲作を行なっていました。しかし自然堤防だけでは、洪水から村落を守ることができません。そこで人々は部分的な堤防を築いて水害を防いできたのです。

 しかし、江戸時代に入り新田がさかんに開発されると、従来の部分的な堤防だけでは洪水を防ぐことができなくなりました。もともと遊水地帯であった堤防の内外を耕地や集落にしてしまったことも、洪水の一因です。また、この頃から行われた河川改修も洪水や内水被害の遠因となっています。大規模な堤防の築造や河川改修は洪水防御には大きな効果をもたらしましたが、その反面、輪中内より河床が高いという天井川の現象を生みだし、湛水被害も引き起こしてしまいました。

 こうした自然的及び社会的現象から生じた水害から共同して村を守るため、集落や耕地の周囲に環状の輪中堤を築き、独自の水防共同体を組織するようになりました。輪中とは輪中堤や水防組織を共有する水防共同体を意味しています。

 一方、水屋や堀田などに代表される輪中地域特有の生活の知恵を生みだしました。水屋とは洪水時に生命や財産などを守るために石垣や盛土の上に建てられた建物で、石垣の高さは1mから4m近くのものまであり、堤防が切れてから水が引くまでの間家族が生活できるよう、味噌や米、水などが貯えられていました。堀田は江戸時代後半から始まった土地利用形態で、沼田の一部の土を掘りあげて田面に盛土することによってできた掘上げ田と、掘った部分にできた短冊状の池沼(掘潰れ)の総称です。

この方法は単に水田面を高くする効果があるだけではなく、水稲の生産向上に役立ちました。

 

展示には、あの伊勢湾台風でこの木曽三川河口付近が一面泥海になり、かろうじてそれぞれの堤防が少しだけ水面に写った写真もありました。

 

父が救援活動に行った伊勢湾台風から当時を知りたいと出かけているのですが、最初の頃は「救援する側と救援される無力な被災者」という捉え方でした。

ところが実際に歩いてみると、それぞれの地域でそれぞれの治水や利水の長い歴史があり、もしかしたら救援に行った父もまたそういう歴史に圧倒されるところもあったのではないか、そんなことを思うことが増えてきました。

 

全国津々浦々田んぼや畑が整然とある風景はほんと「有難い」ものであり、そして最近の「未曾有」続きで「もうダメかもしれない」と悲壮な気持ちになりやすい中、やはりこの国を造ってきた忍耐力に光が見えてくるのでした。

 

 

 

 

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