行間を読む 232 福束輪中と大榑川の歴史

開館とともに輪之内町立図書館の一角にある輪之内町歴史資料館へ入りました。

 

最初に「輪之内町ガイダンス」という大きな地図がありました。

南側は大榑川(おおぐれがわ)までで、対岸の平田町は高須輪中です。

北側をみると、岐阜羽島駅のそばから西へまっすぐ通っている名神高速道路のすぐそばが境界で、ガイダンスには蛇行した太い帯と「輪中堤」「切割」「水防倉庫」と書かれています。

 

木曽川を渡る時には東海道新幹線の真横を並走している名神高速道路ですが、しだいに離れ、長良川揖斐川間を通過する頃には新幹線よりも3kmほど下流側に通っていて、そこは少しくびれたように長良川揖斐川が近づいた場所です。

ここが、かつての輪中の境界だったようです。

できたばかりの東名・名神高速道路で一昼夜かけて祖父母の家に遊びに行ったあの時に、この輪中の境界線を走っていたのですね。

 

なんという輪中だったのだろうと展示をみると、「治水の始まり」という年表の中に「1766年 明和3年 ー 明和2年の福束輪中洪水被害が小浜藩岩国藩により御手伝(おてつだい)普請工事として修復される。」とありました。

 

ちなみに「1755年 宝暦5年 宝暦治水、大榑川洗堰(あらいぜき)完成」ですから、そのわずかまた11年後には大きな洪水が記録されていました。

 

 

*大榑川と「流域の歴史」*

 

平田公園があるあたりの大榑川は川幅も広いのですが、地図をたどっていくとしだいに細い水路のようになり東へ大きく蛇行しながら長良川にかかる大薮大橋の手前で消えているかのように見えます。

気になりながらも大榑川について事前に調べないままでいましたが、今回の散歩であちこちの資料館で目にした大榑川の説明で、福束輪中と高須輪中の境界でありそして宝暦治水の大事な場所であったことがつながってきました。

 

検索すると「荒れ狂う濁流"大榑川(おおぐれがわ)" 400年の時を経て、新たに総合内水対策へ!」(国土交通省中部地方整備局木曽川上流河川事務所 揖斐川第二出張所)という資料がありました。

 

 大榑川は、岐阜県輪之内町大薮地先にその源を発し、福束輪中の南側を北東から南西に流れ、揖斐川27.0kmに合流する流域面積18.7㎢、河川延長8.2kmの一級河川です。流末から大榑橋(4.3km)までを岐阜県が管理し、その上流(準用河川)を輪之内町が管理しています。

(強調は引用者による)

元々は長良川を分流した流れであったから「一級河川」であり、現在はその大薮地先のあたりの細い水色の線は準用河川だということがわかりました。

 

「流域の歴史」を読むと、現代の地図では細い水路かと思う場所に重要な意味があることがわかりました。

 大榑川は、長良川の洪水に悩まされ高須輪中の住民が1619年(元和5年)に勝賀(海津市平田町)から今尾(海津市平田町)までの区間を新たに掘って作った人工河川です。

 大榑川が完成すると長良川の水の多くが大榑川に流れるようになり、今度は揖斐川流域の洪水の危険性が増したため、揖斐川流域の住民が願い出て、1751年(寛延4年)に長良川との分岐点に食違洗堰(くいちがいあらいぜき)を築き、さらには薩摩藩が行った宝暦治水の一環として、1755年(宝暦5年)大榑川洗堰が築造されました。これらの対策により被害は緩和されたものの抜本的なものではなく、やはり毎年のように水害に苦しめられていたため、明治政府は、1899年(明治32年)オランダ人技師のヨハネス・デレーケを招聘し、明治改修工事によって、洗堰が取り壊され、長良川と大榑川が完全に締め切られました

 

散歩の2日目に海津市歴史民俗資料館から岐阜羽島へ戻る時に、大薮大橋の手前にバスの車窓から見えた治水神社とつながりました。

 

輪之内町歴史資料館の「文化財地図」に、水神神社として説明を見つけました。

宝暦5(1755)年に薩摩藩のお手伝普請による「薩摩堰」が完成したが、その後の出水で用をなさなくなった。そこで、洗堰組合が宝暦8(1758)年、その上流に「大榑川洗堰」を構築した。江戸末期に画かれた大榑川洗堰の鳥瞰図には、二番猿尾の頂上部に祠が描かれている。この祠が水神神社である。その後、明治32年に大榑川の閉鎖により、祠を大榑川渡船に通ずる通路上に遷した。そして、昭和初期に現在地に社殿を新築し遷宮祭を斉行した。昭和39年に社殿改築を行い、ついで昭和54年に神域を玉垣で囲み整備した。

 

かつては長良川の洪水を防ぐために分流した場所だったようです。

ただ、Wikipedia「大榑川」「歴史」では「1619年に人工開削した」という定説は不確かで、自然河川があったのではないかとも書かれています。

 

いずれにしても、たくさんの輪中の周囲を複雑に川が網の目のように流れていた古地図をみると足がすくむような感覚に陥るのですが、それが現在の地形になるまでの過酷な歴史がこの地域のあちこちに記録されているのでした。

 

 

輪之内町ガイダンス」と「文化財地図」という二つの地図のおかげで、福束輪中(ふくづかわじゅう)の歴史と地形がだいぶ鮮明になってきました。

地域全体が歴史資料館という感じです。

そしてまた訪ねてみたい場所が次々と出てきました。困りましたね。

 

 

 

*おまけ*

「大榑」、最初は「大樽」と見間違ったのですが、そのあまり馴染みのない漢字の由来が国土交通省の資料に書かれていました。

大榑の由来

 大榑の「榑(くれ)」という字は、「榑木(くれき、細い材料や板にする木材のこと)」に関係があり、寸法の規格により、大榑や小榑などと呼ばれていたようです。昔、木曽川長良川が増水した時、流木となった榑木が、この地に流れ着くことが多く、榑木の引き上げ場所になっていたという説が考えられています。(平成3年編集「大榑川」より)

 

水害時の流木は燃料にも利用されていたとはいえ、濁流と共に流木が迫ってくることを想像しただけでまた足がすくむのでした。

 

 

 

 

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