輪之内町立歴史資料館では輪之内の生活のビデオがありました。
思い返すと善意と正義感に燃えて海外とを行き来していたころの「社会を変えたい」というよりは、あの頃以上にそこの生活に「身をさらしてみる」というあたりまで変化しました。
今もし人生をやり直すことができたら、海外よりはこうした国内の輪中や干拓地を回ってそこにしばらく滞在してみたいものです。
全国津々浦々の水田が健在でそれぞれにまた生活と歴史があることを知ることができるこうした各地の民俗資料館を訪ねることが楽しくなるなんて、10年前には考えつかない世界が広がりました。
ちなみに輪之内では11月ごろに稲の収穫が行われていたそうです。それで稲穂がまだ結構残っていたのですね。
満足感とまた新たなやり残した宿題が増えた喜びで資料館を出て、雨の中、大垣行きのバスに乗りました。
再び県道30号線に入り、西へと水田地帯を走ると揖斐川の堤防と同じぐらいの高さに黒い屋根瓦の美しい集落が見えました。
こうして当日の記録と地図を見直していて、あのあたりが「福束」でかつては福束城もあったようです。
福束大橋で揖斐川を渡ると南側に大きな水門が見え、そこに何本か川や水路が合流しています。
いつか歩いてみたかった水門川がこの先で杭瀬川(くいせがわ)に合流し、しばらく揖斐川と並行したあとに揖斐川と合流するようです。
なんとも圧倒される風景です。
国道258号線を工場や水田地帯のある地域を北上していきますが、ほとんど高低差がないまま名神高速道路の下をくぐると、そこから先は急に市街地の趣になりました。
「輪之内町ガイダンス」の地図では、揖斐川と長良川に挟まれた地域では、名神高速道路のすぐ南側に福束輪中の「輪中堤」があるようです。
かつては輪中と輪中の間の川の上に、名神高速道路が築かれたのでしょうか。
なんだかすごいですね。
小降りになったら途中下車し、養老線友江駅の近くまで歩いて大垣市の「輪中の館」を訪ねようと思っていましたが、やはり雨の中を歩く気力がなくなりました。
そのまままっすぐバスは北上し、東海道新幹線が通過していく美しい姿を眺め、10時9分に大垣駅に到着しました。
*木曽川駅へ行こう*
雨はもうすぐ止みそうです。せっかく木曽三川を訪ねたのに、10時台にこのまま名古屋に戻るだけというのは残念すぎますね。
そうだ、JR木曽川駅から名鉄線新木曽川駅の間を歩いてみようというニッチな計画を実行することにしました。
初日に木曽川の堤防のそばにある木曽川堤駅周辺を歩きましたが、そこよりも2kmほど内陸側に「木曽川」と名前がつく駅があるのはどんな地形なのだろうと以前から歩いてみたいと思っていました。
大垣駅から10時26分発東海道本線快速豊橋行きに乗りました。「豊橋」という行き先案内を見ただけで、散歩の最終日だというのにまたやり残した宿題を思い出してしまいました。困りましたね。
揖斐川の手前にはまた田んぼと美しい屋根瓦の家々が見え、揖斐川を越えると野田新田のあたりまで美しい風景が続いています。「瑞穂市」の名の通りですね。
あっという間に長良川に近づき、堤防の手前に古い街と水路が見えました。
長良川には小舟が浮かんでいて、何かの漁でしょうか。
ここから岐阜駅までも、かつては輪中だった地域のようですから、本当に気が遠くなる川の歴史です。
10時38分岐阜駅に到着し、43分の普通大府行きに乗り換えると、列車はぐいっと南へと向きを変えてあっという間に木曽川に近づき、名鉄線の赤い鉄橋を見ながら渡り、10時49分に木曽川駅に到着しました。
わずか20分ほどで、木曽三川を全て渡るという贅沢な車窓の散歩でした。
*木曽川駅の沿革*
駅の中に、赤い煉瓦を背景にしたおしゃれな駅の説明がありました。
木曽川駅の沿革
明治政府は明治2年(1869)年11月に鉄道の建設を決めた。東西を結ぶ幹線は、同16(1883)年8月に中山道経由高崎・大垣間の建設計画が内定した。あわせて、建設資材運搬のための鉄道を半田沿岸から加納(岐阜)まで敷設することになった。しかし、同19(1886)年7月には幹線の経路が中山道から東海道に変更された。
一ノ宮・加納間の停車場設置は、木曽川を越えた岐阜県側の笠松地区や円城寺地区の案があったが、黒田地区で誘致運動が起こり熱心な活動によって現在地になった。(『木曽川町史』)
明治19(1886)年6月1日に一ノ宮停車場・木曽川停車場間が開通し、武豊停車場・木曽川停車場間の営業を開始した。翌20(1887)年4月25日に木曽川停車場・加納停車場が開通した。また、木曽川の駅本屋は開通から2年後の明治21(1888)年6月に完成した。
その後、明治24年(1891)年10月28日の濃尾地震で、駅本屋が全壊し、東海道本線は橋梁破損や軌道の大被害で完全復旧までに6ヶ月を要した。
複線化は清洲停車場・木曽川停車場間が明治40(1907)年3月1日で、木曽橋信号所から岐阜停車場(明治21年に加納停車場を改称)までの間は、すでに明治42年(1909)年6月15日に複線化されていた。
日本における蒸気機関車の最高速度129km/hは、昭和29年12月15日に木曽川駅構内を出発点として実施した試験運転により木曽川橋梁上で記録した。この記録はピン結合トラス橋の高速列車に対する強度試験での結果で、狭軌蒸気機関車の世界最高速度である。
電化は昭和30(1955)7月20日に稲沢駅・米原駅間で行われ、木曽川駅に発着する列車の電気運転が始まった。(『日本国有鉄道百年史』)
これまでも鉄道史に圧倒されてきたのですが、木曽三川分流工事の計画ができたのが1886年(明治19)ですから、まだ洪水の頻発する輪中があったこの地に東海道本線を造る計画を立てたという判断にもまた圧倒されます。
この散歩の前は、まだどこにどんな輪中があったのか、そして鉄道の空白地帯のように見えるその歴史も何もかもわからないままでしたが、朧げながらつながってきました。
*雨の中の稲穂を眺めて散歩が終わる*
JR木曽川駅から名鉄新木曽川駅へ向かう途中に、木曽川資料館があるようなので立ち寄ってみました。
木造の美しい建物が目を惹きます。「開館中」とありましたが鍵が閉まっていました。残念。
雨脚が強くなってきた中、新木曽川駅に到着。
このあたりから木曽川は南西へ、そして名鉄線は南東へと離れていくのですが、国府宮(こうのみや)駅の手前あたりから美しい水田地帯が広がり、木曽川左岸の堤防までが初日に歩いた稲沢市の範囲のようです。
まだ黄金色の稲穂が広がる幻想的な風景に、新幹線の高架橋が交差しています。
雨の中東海道新幹線が通過していくという、今回の散歩にふさわしい風景を見ることができました。
Wikipediaの稲沢市の「日光川水系の概略図」を見ていたら、また歩いてみたい場所ができました。
木曽三川の輪中を歩き尽くす散歩はまだまだ続きそうです。
「散歩をする」まとめはこちら。
新幹線の車窓から見えた場所を歩いたまとめはこちら。