水のあれこれ 410 「高知」の由来

あちこちを遠出するようになって地名や県名の由来も気になるようになりました。

 

高知県を訪ねようと地図を眺めていた時に高知市の西側に「土佐市」があるのはなぜだろう、土佐藩の中心地はここだったのだろうかと検索すると、県のホームページに「奈良・平安時代は現在の南国市(なんこくし)が土佐の政治と文化の中心でした」と書かれていてますます混乱してきました。

なぜ南国市が「土佐」市にならなかったのでしょう。いろいろと知らないことばかりです。

 

高知県という名前は明治時代の廃藩置県で付けられたそうです。

 

土佐から高知へ、そして高知は何の意味だろうと気になっていたら、高知城のお堀について検索していたときにかつては「河中山城(こうちやまじょう)」と呼ばれていたことを知りました。

 

ああ、それで「こうちけん」になったのかと納得するだけではありませんでした。

 

 

*「水害は嫌!で改名」*

 

Web高知に「高知の名前の由来と高知城」という説明がありました。

 

水害は嫌!で改名

 

関ヶ原の戦いの後、1601年に山内一豊土佐国に入り、治めるようになりました。掛川城から浦戸城に移った山内一豊は、浦戸城では城下町を開くには狭いため、1601年、現在の高知城がある大高坂山に城を築くことにし、築城が始められました。

大高坂山は浦戸湾にも面し、南側には鏡川、北側には江ノ口川が流れ、地の利がありましたが、周辺は湿原が広がるデルタ地帯で、治水工事には大変苦労したようです。

1603年に、本丸と二の丸が完成し、一豊は9月26日(旧暦8月21日)に入場しました。この時、真如寺の僧・在川(ざいせん)により、「河中山城」(こうちやまじょう)と名付けられました。

城下は水害を度々被ります。2代の忠義は「水」に関係の深い「河中」の名を忌み嫌い、竹林寺の僧・空鏡(くうきょう)によって「高智山」と改名します。以降、省略されたのか、いつのまにか「高知城」と呼ばれるようになったようです。そして、町の名前も高知と呼ばれるようになったようです。

 

「河中」と名付けた僧の名前が「在川」というのも偶然にしては興味深いですね。

水害が嫌で「河」の字を忌み嫌って「高智」に変え、さらに「高知」になった。

実際にあの浦戸湾の奥まった低地を歩くと納得できる話でした。

 

 

*「河中」の意味は「二つの河川に挟まれた」*

 

「「高知」の名に込められた水防への思い」(2021年4月11日、毎日新聞)という記事に、もう少し詳しくありました。

 

 土佐国を治めていた戦国大名長宗我部元親は、現在、高知城がある山上に築城しようとしたが、度重なる洪水でわずか3年足らずでこの地への築城を諦めた。その後、関ヶ原の戦いで功績を挙げた山内一豊が初代土佐藩主として入国することになるが、一豊は当初、土佐湾に面した浦戸城に居城した。しかし、土地が狭く城下町をつくるのが難しいと考え、高知平野の中央に位置する大高坂山に築城することを決めた。

 一豊は10年の歳月をかけて築城。城下町を「河中(こうち)」と命名し、城の名前も「河中山城」とした。「河中」としたのは、城を含めた城下が北に流れる江ノ口川、南に流れる鏡川に挟まれ、その「中」に位置していたからである。つまり、この城下一帯は二つの河川によって挟まれた洪水常習地帯だったということになる。

 そこで「河中」という名前はいかにも水害を招きやすいということで、二代目藩主・忠義の時代に「高智」と表記を変えた。その知恵を出したのは八十八ヶ所巡りで有名な五台山竹林寺の高僧・空鏡であったと言われる。そしてその「高智」が後に「高知」となり、そこから現在の「高知県」の名前が生まれたのである。

 つまり、「高知」という地名そのものに、水害を防ごうという人々の願いが込められていたのである。

 江戸時代から現代に至るまで「高知」の地は洪水に悩まされ続けてきたが、戦後の1976(昭和51)年9月の台風17号の豪雨では、鏡川の氾濫により市内の浸水家屋は4万2500戸に及んだという。また1998(平成10)年9月の秋雨前線による豪雨での氾濫では1万5000戸の家屋が浸水の被害を受けている。

 

あの水のはけぬ川の周辺の洪水があった翌年、高知市内もまた甚大な被害をもたらした洪水があったようです。

 

「高知」から「水」を思い浮かべることは今までなかったのですが、まさかの「水害は嫌」という経緯を含む地名でした。

 

 

 

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