窪川駅に到着し列車を降りたとたん、お醤油で何かを料理している良い香りがあたり一面に漂っていました。お腹が空きますね。
外に出てみると、隣に木造の3階建てのビルと駅の反対側への自由通路がおしゃれです。
ホテルかと近づいてみると、四万十町庁舎でした。
「地元のヒノキ間伐材を最大限に利用したハイブリッド構造の庁舎」だそうです。
半世紀前だと木造建築は廃れて、鉄筋コンクリートの頑丈な建物にとって変わられるという雰囲気でしたが、最近はあちこちでまた木も見直されていますね。
木材の産地で見かける、木のベンチとか木造の駅舎とか、奇を衒ったデザインでなく落ち着いた風景が増えました。
*四万十川の「羽」にある田んぼを目指す*
1時間ほどある列車の待ち時間に窪川のどこを歩こうかと地図を眺めていたら、堤防のそばの「新開町」が目に入りました。干拓地などで見かける「新開」です。
そして北から流れてくる四万十川がS字状に大きく蛇行する場所の右岸側が「羽」の地形で、航空写真で確認すると田んぼのようです。
ここを見に行こう。ニッチな散歩の計画ができました。
国道381号線沿いに西へと500mほど歩くと、先ほどの庁舎のあたりを流れていた小さな川がぐいと南へと向きを変えて四万十川に合流するまっすぐな流れが見えてきました。想像よりは堤防が高く、水流が激しい川に豹変するのかもしれません。
左岸側に「四万十町茂串第2ポンプ場」があり、堤防内の排水機場のようです。
対岸が目指す「新開」で、1980年代から2000年代頃の住宅地のように見えます。
堤防の途中に歩行者用の小さな橋があり、そばに何か案内板があります。
土居跡(どいあと)(現新開町) 現在の窪川の街は、ここを拠点に始まった
江戸時代に入り、土佐の国は、それまで支配していた長宗我部氏に替わり、山内氏が治めることになりました。
新しく土佐藩主となった山内一豊は、1603年(慶長8年)、家臣の林勝吉(後、山内伊賀守一吉と改名)を窪川に派遣し、ここからすぐ北に見える山の頂に山城を築くよう命じました。この山城を古渓(山)城(こけいさんじょう)と名付けました。しかし、この山城は1616年(元和元年)、「一国一城」の制によって廃城となりました。
一吉は城の麓であるこの場所(現新開町)に土居屋敷(防御を想定した武家の屋敷)を構えました。周辺を土壁で囲い、山内家の住居のほか、馬屋、武器庫などがあったといわれています。窪川村周辺35ヶ村の統治を任された一吉は、この土居屋敷を拠点として周辺の整備に励みました。
1717年(享保2年)、窪川山内家は6代で断絶し、その後は在番役といわれる役人が置かれ窪川を統治していました。在番役は、土居屋敷にあった長屋を駐在所として使用していました。明治時代に入ると、その長屋は寺子屋として利用されました。
てっきり新田開発された水田がのちに住宅地になり「新開町」と呼ばれたのだと想像していたら、全く違う歴史でした。
堤防の終わるあたりに四万十川本流がゆったりと流れているのが見えます。
土手には桜並木があり、冬でも良い香りがしていました。
憧れていた四万十川の流れです。
水量は少ないのですが、ゆったりと蛇行しながら南側の山あいへと流れていました。
そして対岸には、四万十川より2~3m高い場所に田んぼが広がっていました。
ここを見るためにはるばる来たようなものですから、満足しました。
吉見川が本流へと合流する角に、「窪川地域気象観測所(アメダス)」の小さな機械がありました。
四万十川にカヌーを浮かべている人の姿がありました。うらやましいなあと、よくよくみるとどうやら河川の整備のためのようでした。
*窪川の街並みへ*
国道381号線より一本北側の道を通って駅へ戻ることにしましょう。
蔵や昔ながらの日本家屋が残っています。
また案内板があり、「本町(ほんまち) 江戸時代始めから続く商人の街」と説明がありました。
うだつのある家や酒蔵など、観光向けというより今もそこで生活していることが伝わる街です。私の足音さえ騒音になりそうな静寂です。
吉見川を渡る橋はコンクリート製の頑丈なもので、堤防と同じ高さまである陸閘がついていました。どのような水害の歴史があるのでしょう。
堤防は遊歩道にもなっていて、途中にあるのは小さな地蔵堂でしょうか。駅前の地図によると「見渡し地蔵」だそうです。
橋を渡ると緩やかに蛇行した路地に商店が並んでいました。小さな魚屋さんの店先に手作りのいなり寿司があります。誘惑にかられながら先を急ぎましょう。
このあたりは琴平町で、琴平神社に由来する街のようで、駅前の地図によれば「へんろ道」だそうです。
ぐるりと回って駅舎へと戻りました。
四万十川とそばの田んぼを見てみたいと歩いてみたのですが、思わぬ歴史の勉強になりました。
庁舎の前にあった案内板を記録しておきます。
窪川は、清流四万十川の中流域にある四万十町の東部に位置し、標高約230mの高南台地にある高原のまちです。昼夜の寒暖差が大きいため、濃い霧に包まれることが多く"霧のまち”とも呼ばれています。古代より、四万十川やその支流を含めた流域一帯で農耕が始まり、以来、四国の東と西を結ぶ交通の要衝として様々な歴史を刻んできました。
【戦国時代】
戦国時代初期の1500(明応9)年、相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)から山内備後守宣澄が入国し、小さな地名であた「窪川郷」を姓として「窪川氏」を名乗り、茂串山に山城を築きました。そのころ、窪川一帯(当時は仁井田の庄といいました)は仁井田五人衆と呼ばれる5人の有力豪族による群雄割拠の状態で、中でも窪川氏が最強だったといわれています。約100年間の支配の後、戦国時代末期、3代に渡った窪川氏は断絶しましたが、窪川という地名は窪川氏の支配の強さとともに大きくなっていきました。
【江戸時代】
江戸時代に入ると山内一豊が土佐藩主になり、1601(慶長6)年、一豊は窪川を宇和島方面、中村方面からの侵攻に対する防備の重要な地域と認識し、家臣の林勝吉を窪川に派遣しました。勝吉は窪川山内伊賀守一吉と名乗り、窪川の「街」を整備していきました。以降、約110年にわたって窪川を治めていましたが、1716(享保2)年に6代で断絶しました。窪川山内家が断絶した後の約100年間、在番役といわれる、藩から派遣された役人が統治をしました。
【明治〜大正〜昭和】
明治以降、宇和島街道と中村街道の交差点、さらには太平洋側の港町との行き来の拠点として、人や物、情報などが行きかい、様々な文化が入り混じるまちになりました。1916(大正5)年頃には久礼ー窪川間に乗合自動車が走り始め、1951(昭和26)年、土讃線の多度津ー窪川間が全通し、町民の悲願であった土讃線窪川延伸が達成されました。
自分が生活する場所とはどんなところなのか知ることができる街というのは、本当に落ち着いた街ですね。
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