伊予西条で迎えた4日目の朝、6時18分はまだ真っ暗でしたが、白々と夜が明け始め、6時37分頃から一気に明るくなり石鎚山が見えてきました。夕方だと西日に反射してほとんど見えなかったのですが、真っ白な姿です。
松山から車で30分のところにある久万(くま)スキー場のニュースもありました。四国でもけっこう雪が降るのですね。愛媛もけっこうローカルニュースがありテレビを楽しみにしていました。
いよいよ禎瑞(ていずい)新田を訪ねるのですが、前回は加茂川を渡って嘉母神社のあたりを歩いたので、今回は伊予氷見駅の近くから入ってみることにしました。
伊予氷見駅から北側の干拓地に向けて、微高地が折り重なるように広がっています。その中でも小高い場所にある石岡神社を訪ねてみることにしました。
このあたりに広がる「新開」がつく地名の歴史がわかるかもしれません。
起伏のある畑の中に、冬でも水量豊富な水路が流れています。南側の中央構造線の山々が朝日に輝いて美しく、その奥に瓶が森山や石鎚山の雪山姿が見えました。
少しずつ上り坂になり、境内へ入ると石岡神社へはさらに石段で高い場所にありました。
振り向くと鳥居の向こうに伊予西条市内の低地が見え、遠く石鎚山も見え。まるで鳥居の外側の石鎚山が本殿のような錯覚に陥りました。
かつては海のそばにせり立つような場所だったのでしょうか。
深い鎮守の森の中に美しい社殿がありました。本当に日本全国に腕の良い棟梁がいらっしゃるのですね。
*戦後の狼藉者、ことごとく悲惨な死*
石段の下に大きな説明板がありました。
「石岡、氷見、橘の歴史」
貞観元年(八五九)紀行教が国家鎮護の神として御神霊を京都石清水男山に御奉安の時、同族の正六位上紀禎範及び従三位中納言紀長谷雄親子が紀氏の氏神として勧進する。長谷雄の子 従四位紀淑人が伊予守、南海道追捕史に任じられ瀬戸の海賊平定のために下向し奉祀する。その後、兄弟の従三位参議紀淑光の子孫が奉祀続ける。
二百年程後、後冷泉天皇の御世に継いだ子孫の紀出雲守忠元が氷見の橘島(石岡)の宅地に井戸があり、これを表す玉井と号し始める。この井戸は今も現存する。その後、伊予の国司になった源頼義公が延久五年(一〇七三)予州八ヶ所に八幡宮を建立、その一社に加えられ隆盛する。
文治元年(一一八五)正月 源頼経が宝剣を寄進する。義経はその後屋島の合戦に向かう。この頃、玉井信濃守忠顕(号式内)、玉井薩摩守忠長(号末長)、玉井忠重(号清兼)の兄弟親子が末長、竹内等石岡周辺を開拓する。式内、末長は地名に残る。末長、清兼は祠が残る。
天正十三年(一五八五)正月 天正の陣で社殿、宝物、古記録等を消失する。天正十五年福島正則は社叢の木を伐って船の道具とする、長職(宮司)の玉井二十三代薩摩守忠良を除く神人は全て離散する。忠良は本殿を再建し、その後、慶長十六年(一六一一)玉井和泉守忠宗が本殿の葺き替えをする。
一柳氏西条藩主の時代 正保四年〜寛文二年(一六四七〜一六六二) 西泉、坂元、楢の木、西田、野々市が氷見から分村した。この頃、橘新宮社が西泉村を氏子にしようとして石岡八幡宮との間で争いが起こった。
玉井石見守忠政の代、寛文十年(一六七〇)松平頼純公が新西条藩主隣石岡八幡宮に二石寄進する。伊曾乃、一宮、黒島と合わせて格社とし春秋幣帛を奉る。源氏(徳川)の氏神として藩主の信仰を受け盛える。延宝五年(一六七七)幣殿拝殿建立。延宝六年(一六七八)玉垣建立。元禄二年(一六八九)石鳥居建立(現存)。元禄八年(一六九五)長年橘新宮社と争われていた西泉の氏子争いに勝利。元禄十二年(一六九九)本殿(現存)、楼門建立。宝永三年(一七〇六)神輿(みこし)造立、渡御式再興。この時御旅所を今の猪狩川辺とする。宝永六年(一七〇九)楼門造立(現存)。以上石見守忠政の業績なり。元禄九年(一六九六)玉井対馬守忠信(後忠幸)が「八幡大神宮私記」を書き残す。
享保十九年(一七三四)正六位下玉井対馬守忠幸が応神天皇陵と誉田八幡宮を奉拝したとき、誉田八幡宮のだんじりを見て帰り「寺の下」の竹のだんじりを造った。これが西条、小松地方のだんじりの始めである。寛延四年(一七五一)〜宝暦七年(一七五七)従五位下玉井和泉守忠宿が「公用誌」を残す。この公用誌に、祭りやだんじりの記述が多見される。寛政十一年(一七九九)従五位下玉井上野介忠行参内のおり、白川家を訪問。大盃の酒を勧められ三杯飲み干した上、大杯の絵の浦島の舞を舞い姫君より大盃を拝領した。天保十三年(一八四二)氏子九百件、だんじり十六台と西条誌にあり。
途中に書かれている「だんじり」から、その直前に伊予氷見駅前にあった「西条だんじり祭り発祥の由来」とだんじりの模型とつながりました。
最近、あちこちの神社の御由緒を読むようになったのですが「氏子の争い」が書き残されているのを読むのは初めてでした。
聖書は人間の失敗を記録を綴っていると思うようになりましたが、日本の神社もまた失敗の記録を書き留めていることがありますね。
そしてさらに現代にかけての失敗の記録が続いていました。
明治五年(一八七二)郷社となる。明治十七年(一八八四)県社となる。明治七年(一八七四)社叢が上地せられ官有林となる。明治十七年(一九〇四)玉井三十八代忠孝の努力の末、社叢が払い下げられ社地に戻る。例大祭日は、藩政時代は旧暦八月十四日、十五日で、新暦になり十月一日、二日であったが、大正元年(一九一二)より十月十四日、十五日とする。
大正九年(一九二〇)神苑の土地の内、一反三畝を森広太郎氏が寄付。他に玉井忠男が、久米栄太郎氏と日野敏太郎氏より合わせて約一反買い入れ整備を始め大正十四年(一九二五)に完成する。忠魂碑が昭和三年に発起し昭和十年(一九三五)に完成する。
昭和二十一年(一九四六)南海地震で拝殿納殿など損壊。高良神社に御神霊を移し、仮拝殿を設け拝殿改築に着手。玉井三十九代忠男が私財を抵当に借金をして資金繰りをし、飛行場よりトタン板の払い下げを受け屋根とする、等苦心の末、幣殿拝殿の建築を進める。昭和二十二年再び社叢が上地され玉井忠男の資金を使っての努力であったが、忠男が、高齢ゆえ安全のため渡廊下を設ける。その折、拝殿を広げ祝詞舎との案も出たが、庭上奉拝の古式を著しく損なうとして論外とされる。戦後、官費は出なくなり、信心が薄れ例大祭の祭礼費すら集まらず、又御神幸に乱暴狼藉の者が出る等神社護持に苦難が続く。この狼藉者等は直後悉く悲惨な死をとげ神罰と恐れられた。
昭和四十八年頃、松の木が多く枯れ御旅所の松の大木も枯れる。この松が高値で売れその使途として社務所を新地区する。松の切り株の処理で総代間に揉め事が起こり、玉井忠臣が総代達の不誠実さに失望し昭和五十一年宮司を辞し、後任に十亀司郎氏が就任する。昭和五十五年(一九八五)祭ケ岡で古墳が発掘され整備される。この地は農地改革で畑になろうとしていたが玉井忠男が「古代神功皇后が三韓からの帰途、戦勝の祝いを行った大切な地との先祖の言い伝えがあることを鑑み」自費で買取り後神社に寄附した土地である。昭和五十七年、十亀氏、他職と宮司職を両立できず宮司を辞す。後任に玉井忠臣を宮司に再任す。昭和六十一年、玉井忠臣体調不良で宮司を辞し、石岡神社に縁のある有資格者の後継者が決まるまでを任期として宮司代務者を置き、その旨を代務者に告知する。
平成二十三年秋
(強調は引用者による)
社殿を囲むように鬱蒼とした鎮守の森がとても美しい神社でしたが、戦争へと進む時代に二度も官有林にされたものを取り戻したようです。
社叢という言葉を知った時に、それまでの私がイメージしていた「神社」やその思想とは全く違う世界があることにようやく気づきました。
そこにはさまざまな動植物をはじめとした生活史を知る場所であり、相対的に人間の社会とは小さなものであることを感じる、そんな場所とでもいうのでしょうか。
ところが現世では、それを「神」として勝手に権力に利用し人の争いへと落ちてしまう。
父になぜあの戦争に反対しなかったのかと青年らしい正義感ではあれ愚かで残酷な質問をしたことが、今、まさに同じ時代へと向かっている自分に跳ね返ってきています。
それに抗うことがいかに難しいか。
そして当時も、皆が戦争に賛成していたのではなく、むしろそうならないように何かを残し続けてきてくれたのではないか、それを私はまだ知らなかったのだとあちこちを訪ねながら思うようになりました。
1946(昭和21)年に起きた南海地震、この石岡神社の北東にある禎瑞新田では地盤沈下で満潮時には1mほど田んぼが湛水したために「客土」で対応した記録が残っていました。
そして、1946年(昭和21)年の南海地震というのは地震と津波の被害だけでなく、戦争との悲惨な記録でもあったことが自費出版で残されていたのでした。
その戦後から復興し経済的に豊かになるにつれ、おそらく人類の歴史で未だかつてないほど自分が大事、他人を気にしない風潮へと変わりその結果が今の時代に現れているのだろうと思うことが増えました。
ひと昔前だったら「神をも恐れない不遜な」という戒めも死語になるくらい、罪へも物おじしない社会とでもいうのでしょうか。
それでもこうして、各地に俗塵を掃き清めるかのように、毎日人知れず早朝から境内を美しく維持管理している神社の存在がこの国にあるかぎり、失敗から立ち直っていくような気がしました。
*おまけ*
2018年に新宮市で購入した「熊野誌」の記事を読み返していたら、この石岡神社の説明版が書かれた「平成二十三年秋」は、平成23年に紀伊半島に甚大な被害をもたらした台風とつながりました。徳島や高知でもかなりの被害があったようです。
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