今まで歩いた干拓地と少し違い、西条はうちぬきと呼ばれる湧水の豊富な場所に干拓が進められたようで、そこに惹かれて昨年7月に出かけてみました。
ところが、35度前後という猛暑日になり禎瑞新田の周囲の堤防を歩こうという計画は幻のまま終わったのでした。
禎瑞新田の北端までの往復で10km以上はありますから、確実に歩ける季節となれば冬場の方が適していそうです。
石岡神社から氷見石岡新開、氷見北新開そして中山川沿いに歩いて禎瑞新田に入り、燧(ひうち)なだ沿いの堤防の上を歩いて禎瑞新田を眺め、龍神社に参拝してそのあとは西泉新開を通って伊予氷見駅に戻り、予讃線の北側のかつての海岸線だったのだろうと思われる場所を歩く。加茂川右岸へと渡り、西条農業高校の近くにある分水路沿いを歩いて西条駅まで戻る。
20kmは軽く超えるでしょうか、そんな無謀な計画になりました。
あとは堤防の上を歩くのに、飛ばされるような海風が吹かないことを祈るだけです。
*氷見新開から禎瑞新田へ*
石岡神社の社叢を右手に見ながら、畑や住宅のある場所を下っていきます。1月下旬、ホテルを出る時は7度でしたが、蝋梅が香り春が近づいていることを感じる陽光で、焼き板の壁に水仙の花が美しい落ち着いた集落を歩きました。
日が少しずつ高くなってくると背中に当たる太陽がちょっと暑く感じ始めましたが、用水路や干拓地を歩くには心地よい散歩日和です。
切り通しのような道を抜けると、目の前に広々と水田地帯が広がり、そのちょうど境界線のような場所に石の常夜灯と「この常夜燈は南海地震により倒壊のため破損していた部分を補い建立復旧した」と書かれた石碑がありました。
ここからは左手の中山川に沿って氷見北新開地区に入ります。何も遮るものがないからでしょうか、1kmほど離れたところを通過する予讃線の電車の音が響いています。
堤防の上を歩くと菜の花が満開で、川や空の青さに映えています。
水門には「土手が泣いているぞ〜、あんたのそのごみで」と注意書きがありましたが、見渡す限りごみは見かけませんでした。どなたかが清掃してくださっているのですね。
「しじみ漁は 5月20日〜7月25日の間放流繁殖保護の為捕獲禁止とする」という表示と、しばらく歩くと「うなぎ漁の竹筒漁は、平成22年度より登録制とし」と書かれたものがありました。
ほんと、密漁とか農作物泥棒とか、果ては灌漑のためのパイプラインの金属製の蛇口までとっていくとか神を畏れぬ狼藉者の多い時代です。
土手の右手の干拓地内にどころどころ住宅地がまとまってあります。
南側に見える中央構造線の美しい山々と雪を抱いた石鎚山と、かつての祖父母の田んぼと落ち着いた街なみを思い出すような美しい風景です。
ふと、国とはこうした忍耐と責任感を持つ人たちの暮らしによって守られると思いついたら、犬にワンワンと吠えられました。どこの家の犬だろうと見渡したら、なんと電線に止まるカラスが吠えていたのでした。
中山川に白鷺が佇んでいました。その先に燧灘の干潟が近づいてきました。
途中、住吉神社も立ち寄ってみようと計画していましたが、住民でないと入れないようです。中に石碑が見えたので残念に思いながら県道13号線の地下道をくぐると、そこからはいよいよ禎瑞地区です。
*燧灘と広大な干拓地を眺めながら歩く*
堤防の向こうから80代前後のご夫婦が歩いてこられました。足の悪い夫のスピードに合わせるように奥さんはゆっくりと歩いています。亡くなった両親の晩年の姿が重なりました。
最近は農村への散歩も「怪しい人」に見られる可能性がありますから、「燧灘沿いに堤防を歩きたいのですが、大丈夫ですか」と挨拶がてら話しかけると、「大丈夫。きいつけて」と穏やかに答えてくださったのでした。
堤防下に見える集落と承水路や水路が本当に美しく、今度はやはり稲が風にそよいでいる風景も見たいものです。
振り返ると石鎚山が見え、堤防のそばにはお地蔵さんがいらっしゃり蝋梅が香り、すでに6000歩ほど歩きましたがまったく疲れていません。
心配していた風もまったくなく再訪して良かった、これならいくらでも歩けそうです。
磯の香りがし始め、中山川の河口と燧灘の干潟になり、たくさんの水鳥が休んでいます。
途中の電柱に「死ぬな!逃げろ!助けろ!」と書かれていました。
海のそばで生活するというのはどんな心構えができていくのでしょう。
途中、堤防の内側に沿って松の木があり、小さな鳥居と祠の蛭子神社がありました。
対岸に工場が見え、禎瑞側には住宅地が見えてきました。「西条のベネチア」と呼ばれる地区で、その向こうは燧灘です。
計画を立てていた段階では堤防の上を歩いているときに強風に煽られて燧灘に転落する妄想にびびっていたのですが、ちゃんとコンクリートの壁が海側にあり、まったく凪でのんびりとした散歩です。
堤防の湾曲に沿って歩いていると南蛮樋の説明がありました。
南蛮樋の大石樋
内側の石組みに昔日の面影を残す。
243年前に造られた樋門だそうです。
しばらく歩くと、大きな水門がありました。
竣工 昭和50年3月
樋門名 禎瑞東樋門
私が中学生か高校生の頃に造られた樋門がこうして、雨風にも波にも地震にも負けず干拓地を守り続けてくれているようです。
禎瑞新田の堤防の北端から東へと湾曲するあたりに、目指す龍神社がありました。
堤防の内側へと降りる石段があり、承水路のそばに社殿が建っています。
急な石段で足がすくむようですが、鳥居の間に広々とした田んぼと遠く石鎚山がまるで御神体のように見えます。
振り返ると真っ青な冬空と一体になった鏡のような燧灘が広がっていました。
こんなに素晴らしい風景を独り占めです。
そばの石碑に、「禎瑞新田干拓(1778〜82年)完成後も鬼門に当たるため、この場所は浪風高く堤防が崩れる恐れがあるため海神を奉斎し神護を得んと寛政11(1799)年西条藩主松平家によって創建された」という御由緒と「御神徳 海上安全、漁業安全、家内安全」と彫られていました。
やはり燧灘へ吹き飛ばされそうというのは妄想でもなく、現実にあるのだと足がすくみそうになりました。
堤防が東から南へと向きを変え今度は加茂川の河口になり、西条の市街地が見えました。
そして先ほどまでははっきり見えていた石鎚山ですが、日が高くなるにつれて光に反射するのか姿がはっきり見えにくくなりました。
前日に西条市に到着したときに石鎚山の姿が幻影のように感じたのは、冬の日差しのためだったようです。
そして全国へと遠出をするようになって時々方向感覚がおかしくなるのは山が南側にあると感覚がズレるとともに、その山への光の加減もまた関係があるのかもしれません。
「散歩をする」まとめはこちら。
樋についてのまとめはこちら。