落ち着いた街 75 「緑と花、光と水」の街

飛び飛びになりましたが、1月下旬の土佐から伊予への散歩の最後の記事です。

9時の開館と同時に 四国鉄道文化会館と十河信二記念館に入った時には私一人でしたが、見終わる頃にはいつの間にかけっこうな観光客がいました。

四国循環鉄道の夢を抱いていた十河信二氏には想像もつかない半世紀後の姿ですね。

 

無事に4泊5日が終わりそうです。滞りなくこれだけの場所を訪ねることができたのも四国の鉄道網のおかげです。

名残惜しさに心が千々に乱れながら、10時19分発のしおかぜ12号に乗りました。車窓の風景を一瞬も逃すまいと眺め、瀬戸大橋をこえ、岡山の広々とした干拓地を眺めて12時11分に岡山駅に到着した時には、もうすでに今度はいつ四国に行こうかと思っていました。

 

さて、東京に戻る新幹線は15時20分なのでまだ時間があります。長旅でしたが、元気があれば訪ねようと思っていた場所を目指しました。

 

 

*美しい用水路、西川緑道*

 

2018年11月に久しぶりに岡山を訪ねた時は遠出に全く慣れていないので計画も大ざっぱで、出だしから目的地をあきらめた時に偶然見つけたのが西川緑道でした。

 

ただこの時も久しぶりの岡山駅に到着する直前、車窓から滔々と流れる用水路を見逃しませんでした。なんといっても初めての「干拓地を訪ねることが目的の散歩」でしたからね。あとであの用水路と西川緑道がつながったのでした。

あの時は、国道53号線から駅前の路面電車が走っている県道27号線までの緑道を歩きましたが、地図で見るとその先に用水路はところどころ分岐しながら南側の地域を潤しているようです。その後瀬戸大橋線に乗った時に岡山駅の次の大元駅の周辺に用水路と田んぼが見えましたが、それもこの水路からのようです。

県庁所在地の繁華街のすぐそばに現役の田んぼと水路がある風景、このまま残されるといですね。

 

今回はその路面電車の通りから南側へ岡山大学医学部附属病院のあたりまで歩いてみよう、そんな計画でした。

疲れは溜まっていますが、水面を見ているだけで歩けそうな気がして緑道沿いへと向かいました。

 

 

*西川緑道から枝川緑道へ*

 

 

1月下旬だというのに、悠々とした水量の流れです。

水路沿いには木々や草花がよく手入れされていて、ベンチもたくさんあって腰掛けて用水路を眺めている方がけっこういらっしゃいました。

 

途中、「西川緑道公園案内図」の石碑があり、こんなことが記されていました。

岡山市市民憲章

⚫︎みんなに親切をつくし あたたかい楽しいまちをつくりましょう

⚫︎秩序と規則を守り 明るい安全なまちをつくりましょう

⚫︎花や木をたいせつに育て美しい緑のまちをつくりましょう

⚫︎紙くずやゴミの始末をよくし気持よい清潔なまちをつくりましょう

⚫︎文化財をたいせつに守り伝統あるゆかしいまちをつくりましょう

     昭和37年10月10日制定

 

戦争が終わっても社会は混沌として生きる希望や夢が欠けた時代が続く

私が生まれた頃はそんな時代でもあったのだと、この市民憲章を読んで思いました。

 

緑道沿いにはさまざまな歴史の記述が残されていて、のんびりと立ち止まって読みました。

 旧 桶屋町

 外堀と西川の間にあった町で桶をつくる職人が多く住んでいたため町の名前がついたといわれます。

 桶は当時の生活に欠かせないもので多くの城下町にこの名が伝わっています。

 町の西川沿いには侍屋敷が連なっていました。

時代は桶からブリキのバケツになりそしてポリバケツに変わりました。そうそう10年ほど前に書いたこのポリバケツですが、半世紀たっていまだ健在で使っていますからすごい耐久性ですね。

 

そんなことを思い出しながら歩いていると、今度は戦争の記録でした。

この像は郷土の香り高い文化を象徴するとともに空襲當時の惨禍を回想して再び戦争の不幸を繰り返さないよう世界恒久の平和と郷土永遠の幸福を希う心の道標として建設したものである

どうか往く人も還る人も均くこの像を親み仰ぎ常にほのぼのとした愛の心を寄せられんことを

 昭和二十九年六月二十九日

「希う」とは「こいねがう」という読み方があったとは。

そうだった、両親はそれぞれ戦争を体験し生きたのだ。もっと二人の時代の葛藤に耳を貸すべきだったと、こういう感情になるとは若い頃には思わないものですね。

 

しんみりした思いで、水面を眺めながら歩いていると「のどのばし」がありました。

 旧野殿町(きゅうのどのまち)

 江戸時代、城の西にあった町人町です。古くはこの町を山陽道がとおり、野殿口とよばれていました。

 池田綱政により山陽道が移設されたのちも、野殿町経由で花尻村や備中吉備津へむかう備中往来がとおっていたため、この名がついたといわれています。

 

川幅の広い用水路にゆったりと水が流れ、ところどころ分水路の水門があります。

まっすぐな用水路なのに全く疲れることも飽きることもなく楽しい道でした。

 

また大きな石碑がありました。大きな字で「緑と花 光と水」と彫られていて、どなたかのリレーフが埋め込まれていました。

岡崎平夫氏は昭和二五年岡山市水道部長に着任 「節水・断水のない水道」の実現に努め 昭和三八年岡山市長に就任 爾来五期二十年にわたり「緑と花 光と水」の街づくりを基本理念に新幹線・瀬戸大橋時代に対応する岡山市の基盤整備に尽力されました。わけても西川緑道公園に代表される都市緑化・下水道事業による環境整備 オリエント美術館建設など文化の振興 中国洛陽市などとの都市縁組による国際交流の推進など数々の功績は高く評価されています

さらに全国市長会会長など全国的にも多年にわたる活躍で岡山市の声価を高めました またらいらくな中にも繊細な人柄は多くの市民に親しまれ愛されました

氏の遺徳を後世の人々に伝えるため 多くの方々から寄せられました浄財によって氏にゆかりの深いこの地に顕彰碑を建立しました

 

『「節水・断水のない水道」の実現に努め』

水道部長のまさに実業(じつごう)、生活次元の仕事で培われた能力による、住民のための政治という感じでしょうか。

 

1976年に造られたそうですが、以来半世紀、岡山平野の象徴とも言える干拓地を潤しながら市の中心部を静かに流れる用水路に沿って静かに散策できる場所になりました。

以前は「小建物が乱立した地域」だったそうで、同じ再開発でも「経済効果」一辺倒の商業地域とは全く趣が違いました。

 

用水路に沿ってずっと、誰もが静かに歩き休める道が続いていました。

 

途中から分かれた枝川緑道に沿って歩き路面電車に乗って岡山駅へ戻り、最後の最後まで充実した5日間の遠出が終わりました。

そしてまた岡山で歩きたいと思う場所が次々に出てきました。困りましたね。

 

 

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