行間を読む 239 「ディスカバー・ジャパン」

散歩と遠出をするようになって「ディスカバー・ジャパン」というフレーズを思い出していたのですが、おとといの記事を書くためにWikipediaを読んでみたところ私の記憶と全く違っていました。

 

「ディスカバー・ジャパン」で思い出すのは、「ああ〜日本のどこかで」という歌と共に吉永小百合さんが京都や平泉の静かな風景の中に佇んでいるCMで、1990年代だったように記憶していました。

ところがキャンペーン自体は、1970年の万博の後からだったとは。

 

1990年代、30代だった私は植民地時代と新植民地時代の葛藤の中にあったので、CMの映像の美しさは印象に残ったものの旅情を感じることもなく、そして「日本の人は戦争責任について考えず、自分たちだけ豊な暮らしを求めている」と憤っていた頃でした。ほんと、今考えると気恥ずかしくなる正義感ですね。

まあそれが青年期というものですけれど。

その後、全体をとらえて正確性がわかるようになることがおもしろくなり、年表という地図を作りあげることが楽しくなって今に至るという感じです。

 

そんなことで、「ディスカバー・ジャパン」はどんな時代背景だったか気になってきました。

 

 

*「日本を見直そう」かと思ったら*

 

「ディスカバー・ジャパン」ってきっと「日本の良さを見直そう」みたいな意味で使われたのだろうと思っていました。1980年代半ば以降「海外に安く行けるから」と海外旅行がブームになったのに対抗して国内旅行へ向かせる、というイメージでした。

 

ところが「日本を発見し」ではあるのですが、「『自分自身を再発見する』をコンセプトに」(Wikipedia)とあり、そしてキャンペーンの副題は「美しい日本と私」だったようです。

「自分は大事」「自分はすばらしい」の時代は1980年代に入ってからの記憶だったのですが、1970年代にはもう始まっていたのですね。

「美しい日本、と私」なのでしょうか、それとも「美しい日本、と(美しい)私」なのでしょうか。いやはや。

そして「また当初副題は三島由紀夫に依頼したが断られたという」のも、何をか言わんやですね。

 

定義が曖昧なのにふわりとしたイメージだけが浸透する時代に入ったのはこのあたりで、「クリエイティブ」とか「コンセプト」といった私にはちょっと気恥ずかしく感じる言葉がしょっちゅう使われるようになったのでした。まさに「言葉は10年後には違う意味になる」ですね。

 

普遍的と思われた「自由」でさえ、意味が変わるようですからね。

 

「ディスカバー・ジャパン」

ほんと、全国に有名でなくても堅実で落ち着いた街がありますが、一時の「観光」ブームで強者どもが夢の跡になってしまわないようにと祈るばかりです。

 

 

 

*おまけ*

 

出産・育児界隈もまた専門職として定義もできない言葉がイメージだけで広がり、理論化を急ぐあまり量産された言葉がファッションのように2~3年もたつと忘れられていくことに翻弄されてきました。

 

ようやく反動から落ち着いて出産と保育の本質に戻ってきたと思ったら、最近また「私らしいお産」という呪縛が私の仕事の界隈に復活しているらしいことに愕然としています。

歴史は繰り返すですね。いやはや。

 

 

 

 

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