1月下旬の土佐から伊予への散歩の記録も終わり、さあ2月の散歩の記録に取りかかろうと散歩の記録のファイルを見ると、なんと2024年に歩いた4回分の散歩の記録がまだそのままになっていることを発見。
記録にしたつもりが書いていなかった記録を書いたばかりだというのに、まだあったとは。
どれも都内を歩いたもので1~2時間程度の散歩でした。
散歩を始めて10年ほど経ち都内は歩き尽くしたような気がするのですが、地図を見直すと「こんな場所を見落としていた」とまた出かけています。
ということで、長くなりますがそのうちの3回分を一気にまとめておこうと思います。
*1月の野川の湧水巡り*
国分寺崖線沿いを流れる野川にはお鷹の道を始め、湧水と美しい水路があります。ここもほとんどを歩いたつもりでしたが、ふと地図を見直すと西武線多摩川線の東側にある産土神社や笠森稲荷のあたりはまだ歩いたことがありません。それで昨年1月2日に出かけたのでした。
神社の横の道から西武線沿いの道に入ると、ちょうど崖の下り坂になるあたりにベンチがあって西武線を眺められるようになっていたのが印象的でした。
蝋梅の良い香りと水仙の花が咲いていました。水仙は年々好きになってきた花ですが、この散歩の時には「なぜ名前に『水』が付くのか」とメモしていました。wikipediaには「水辺に育ち、仙人のように寿命が長く、清らかな」と書かれていて、今更ながらそうだったのかと知りました。
野川公園にはぼちぼちと散歩をする姿がありましたが、あちこちからの湧水が川へと流れ込む水音は独り占めです。静かな新年に浸っていると救急車の音が聞こえてきました。
うるさいと苦情を言う人がいるとは。搬送時に救急車が近づく音を待つ時間の長いこと。
とメモしていました。本当にありがたい社会になったのですけれどね。
この日は2017年12月と2021年1月に歩いた大沢の里の崖線の上へと登ってみました。切り通しの道路から崖の上に鳥居とお社が見えました。
途中防空壕の跡があり、竹藪に沿って上るとそこから野川の対岸が見えました。
崖線のあちこちから滲み出した水が、小さな流れになり川になる。美しい場所でした。
*4月の信濃町駅から四谷三丁目駅の間の蛇行した道の散歩*
総武線信濃町駅から地下鉄丸ノ内線四谷三丁目の間は、2017年に青山上水を遡りながら玉川上水へと歩いたのですが、以前から気になっていた場所があります。
須賀町と若葉の間に大きく蛇行した道があり、寺社が多い地域があります。おそらく崖線の間のような場所だろうと想像できたのですが、まだ歩いたことがありません。
昨年4月初旬に信濃町駅から歩いてみました。
信濃町といえば牙城とでもいう場所ですが、この日も何か入場券が必要な会が催されて大勢の人がいました。
人の流れから離れるとカトリックの建物と静かな住宅街で、もとまち公園からぐいと下りになりました。総武線のそばにある出羽坂児童遊園という小さな公園を北へと曲がると乳児院があり、戦後の乳児保育を支えてこられた小児科の先生のことを思い出しました。
蛇行した道沿いには、外国からの幼児教育の施設があったり、黒壁に白の蔵があったり、マンションと古い住宅、花屋さん、お弁当屋さんと昭和から令和が混ざった風景です。
「鉄砲坂」という緩やかな坂を上るとおしゃれなマンションと思ったら、介護付き老人ホームでした。お城のような建物はお寺でした。
包丁研ぎのお店の奥は崖線です。
なんだか不思議な空間が蛇行した道沿いにあり、「観音坂」では「潮の干満がここまで影響していた」と説明書きがありました。
両側が小高い場所に挟まれた道ですが、よく見ると二段に高台になっているようです。
東福院坂の反対側は急な階段で須賀神社の参道になっていて、外国人観光客が歩いている中にポツンと私が一人日本人というムードになりました。
最後にグイグイと蛇行しながら坂を上り、円通寺坂の向こうに国道20号線が見えました。
横道にも酒屋さんとか豆腐屋さんとか、いろいろなお店の方々が働いています。都心のど真ん中なのに江戸時代からの生活が続いているような、これがまた魅力でもありますね。
国道20号を左に曲がると、新宿御苑トンネルの手前に大きな玉川上水記念碑があります。
ここは現代の「清浄、豊富、低廉」な水道への感謝が湧き出て、私にとっては水の神様のような場所になりました。
新宿御苑横の玉川上水沿いに歩くとスミレが咲いていて大満足。正門の前は入場を待つ外国人観光客でごった返していました。
江戸時代から現代のいつを歩いているのだろうと、ちょっと混乱する蛇行した道でした。
*「新幹線が地下へ入る場所」を見に行くつもりだった散歩*
九州新幹線を除いてはほぼ制覇した新幹線網ですが、いつか確認してみたいと思っている場所があります。
北陸新幹線・上越新幹線そして東北・秋田・山形新幹線に乗ると、東京駅を出てじきに地下へ入ります。秋葉原の先だと思うのですが、「新幹線が地下に入るところを見てみたい」そう思って昨年11月初旬に出かけてみました。
地図を航空写真に切り替えて見ると蔵前橋通りあたりでも新幹線の線路が見えますから、この先で地下へと入るのでしょうか。
地下鉄銀座線末広町駅からスタートすることにしました。
末広町駅、そういえば初めて下車します。どんな街でしょう。
地上に出ると、焼き鳥屋さんや中華屋さんや花屋さんといい感じです。スーパーマーケットの前では焼き芋が売られています。
その先に高架橋が見えます。山手線、中央・総武線、京浜東北線、そして新幹線と幅が広い高架橋です。
東側にまわって、交差点から新幹線が来るのを待ちました。そろそろはくたかとかがやきが通過する時刻です。ところが待てど暮らせど新幹線は来ず、特急がその線路を通りさらに車止めのような高架橋がありました。航空写真でそれをトンネルの入り口と勘違いしたのかもしれません。
なんと痛恨のミス、もう少し南側の秋葉原駅を出てすぐに地下へと入っていたようです。
急に歩く気力がなくなりどの駅から帰ろうかと歩いていたら、案内板がありました。
伊東玄朴(いとうげんぼく)居宅跡・種痘所跡
この辺りに、蘭方医伊東玄朴の居宅兼家塾「象先堂(しょうせんどう)」があった。伊東玄朴は、寛政十二年(一八〇〇)肥前国仁比山(現、佐賀県神埼郡神埼町)で農民の子として生まれた。後佐賀藩医の養子となり、長崎でドイツ人医師フランツ・フォン・シーボルトらに蘭学を学び、その後江戸に出て、天保四年(一八三三)当地に居を構えた。安政五年(一八五八)には、将軍家定の侍医も務め、その名声は高まり門人が列をなした。
玄朴はまた、江戸においてはじめて種痘法を開始した人物である。種痘とは、一九八〇年に世界保健機関(WHO)により撲滅宣言された天然痘に対する予防法。一七九六年、イギリス人エドワード・ジェンナーが発明し、天然痘によって多くの人間が命を落としていたため、種痘法は西洋医学をわが国で受け入れる決定的な要因になった。嘉永二年(一八四九)、長崎でドイツ人のオランダ商館医オットー・モーニケが、佐賀藩医楢林宗建の子供に接種したのがわが国における種痘の最初である。
江戸では、安政四年(一八五七)、神田お玉ヶ池(現、千代田区岩本町)に玄朴ら八十余名が金銭を供出して種痘所設立を図り、翌年竣工した。種痘所は、この翌年火災により消失してしまったため、下谷和泉橋通の仮施設に移り、翌万延元年(一八六〇)再建された。同年には幕府直轄の公認機関となり、この後「西洋医学所」「医学所」「医学校」「大学東校」という変遷をたどり、現在の東京大学医学部の前身となった。
幕府の機関となった種痘所の位置は、伊東玄朴宅のすぐ南側、現在の台東一丁目三十番地の南側半分、同二十八番地の全域に相当する。
なお、台東区谷中四丁目四番地の天龍院門前には、伊東玄朴の墓(都指定旧跡)についての説明板が建っています。
天然痘と種痘の歴史について、散歩をすることでまた世界が広がりました。
そして伊東玄朴が神埼の出身ということから、佐賀平野の広大なクリークを思い浮かべ親近感が湧きました。ほんと、百聞は一見にしかず、ですね。
このあたりは真っ直ぐに区画整理された下町で、「蛇行した道」も「湧水」もなさそうだったので今まであまり関心がありませんでした。
ところが、この一枚の説明文からこの地をもう少し歩きたくなったのでした。
種痘所跡から一本東寄りの道を上野駅に向かって歩いてみました。
割り箸屋さんがあり、五郎さんが入りそうな食堂がたくさんあり、植物も案外と多くてなんだか力が抜けていく道です。
こんなビル街にと思う場所に大銀杏があり、お狐様が祀られていました。
地図では御徒町公園に四角い水色の場所が描かれているのですが、なんと隅にある八幡神社から小さな水路があって池になっているのでした。湧水があったのでしょうか。
案外と多くの人が公園で休み、池を眺めている人もいますが、静寂です。
関東大震災(1923年9月1日)では、火災が鎮火した要因の一つに公園緑地や広場が焼け止まりとして機能したことがわかり、公園設置の重要性が高まりました。
東京市はこれを踏まえ、震災の消失区域において、震災復興公園として52か所の小公園を整備しました。
小公園は、小学校に隣接して整備され、近隣住民の憩いの場や地域コミュニティの中心、地域における防災拠点のほか、校庭の延長や教材園などとしての役割を担ってきました。
また、震災復興のシンボルとなるとともに、後の都市公園や児童公園のモデルとなりました。台東区には小公園が15か所と、また国により設置された3か所の大公園の一つである隅田公園があります。
大震災はいつ発生するかわかりません。普段から災害時の備蓄や避難の方法等を家族で話し合いましょう。
公園は今や空気のように当たり前に存在しているのですが、明治時代に私財を投げ打って国立公園を作った方々のおかげで公衆衛生のための都市公園から防災のための公園と整備されてきた歴史を思い出しました。
御徒町から上野駅のあたりは人も多くてごちゃごちゃしているイメージでしたが、通りは清掃が行き届いています。そして美味しそうなお店がたくさん。
ここまで来たら、あの場所を訪ねてみましょう。
西町公園も大きな木が林のように美しく、その隣に目指す永寿総合病院がありました。
新型コロナが日本で拡大し始めた頃に患者さんを受け入れ、毎日のようにニュースで伝えられていた病院です。未知のウィルスで医療従事者でも恐怖でしかなかったのに、なんとすごいことでしょう。
そしてビル群の中の病院だと思っていたのですが、隣接する公園のため林の中にあるかのようです。
上野駅が近づくにつれて小さなホテルが増えてきました。マニラの観光客が多い通りを思い出しました。
と思っていると小さな佃煮屋さんがあり、良い香りに誘われてきゃらぶきとアミの佃煮を買ってしまいました。
ミシン屋さんもあります。
東京も案外と落ち着いた街だと見直した散歩になりました。
どうか普通に暮らしている人がそのままその生活を続けられる街が残りますように。
新幹線が地下に入る場所はやり残した宿題になりました。
そしてあと一つの散歩の記録は、また明日に続きます。
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