記憶についてのあれこれ 183 平成の米騒動とピナトゥボ山

このところの米騒動で、1993年の米騒動の前後の時代を思い返しています。

 

きっかけになったのはピナトゥボ山の噴火でした。

1991年6月初旬に大噴火がニュースになった時に、まさか2年後に日本に米不足が生じるとは夢にも思っていなくて、どちらかというとアエタの人たちは大丈夫だろうかという心配でした。

なぜピナトゥボ山とアエタの名前を知っていたかというと、1980年代半ばに働いたインドシナ難民キャンプがあったルソン島に住んでいたときに、現地の友人から聞いたり実際に街で出会っていたのだろうと思いますが、そのあたり記憶はあやふやになっています。

 

久しぶりにフィリピンの地図を眺めてみました。

マニラ市街を抜けるとじきに広大な水田地帯を走ります。当時のハイウェイ沿線の様子は今でもフィルムを巻き戻すかのように思い出せます。

ただ、そのハイウェイは戦後賠償の一つ「日比友好道路」と呼ばれていること、インドシナ難民キャンプはバターン半島にあることで当時はいつも緊張していた記憶があります。

さらに初めて外国で生活するさまざまな緊張感の中でしたが、日本と同じ田んぼと稲の香りがする街に、これならやっていけそうと心が落ち着くのでした。

 

さて、そのハイウェイを北上すると、サンフェルナンド市で西へと曲がりバターン半島へと入ります。

そのサンフェルナンド市から直線距離で北西30kmほどのところにピナトゥボ山がありますが、車窓から見えたかどうかは全く記憶にありません。

 

1時間ほど山道を走りオロンガポの街に入るとああ無事に山道を越えたとホッとし、今度は海岸沿いを南下するとモロンという村のはずれにインドシナ難民キャンプがありました。

階層社会でしたから、難民キャンプで働くスタッフのお手伝いさんとしてこの村の女性が雇われていました。

マニラまで車で6時間、よく往復したものです。

 

 

 

*米軍を撤退させるほどの噴火だった*

 

1991年6月ごろは、フィリピンの友人とやりとりをしながら翌年に1年ほどフィリピンで過ごすexposureの計画を立てていた時でした。

噴火でアエタの人たちの文化や生活が大きく変わり、周辺地域の大規模な避難、ルソン島内の国内空港がすぐに閉鎖され、その被害は甚大でした。

 

そして空港閉鎖だけでなく、火山噴火により成層圏に達した塵埃によって世界中の気候にも影響を与えることになるのを初めて知りました。

 

そして今のようにネットニュースがないので、当時読んでいた英字新聞で情報を得ていましたが、ピープルパワーの革命のあとなかなか進まなかった米軍の撤退をピナトゥボ火山の噴火は実現させたのでした。

 

サンフェルナンド市の北西15kmほどのピナトゥボ山の麓にあったクラーク米軍基地は、1991年11月26日にフィリピンに返還されました。

基地の使用期限延長に関する交渉中の1991年4月、20kmほどしか離れていないピナトゥボ山が活動し始めた。クラーク空軍基地は、ピナトゥボ山から過去の大噴火で噴出した火砕流や火山灰が積もって出来た平野にあるため、大きな被害を受けることが予想された。6月に入って、本格的な噴火が始まり、兵員の大半とその家族は、スービック海軍基地へと避難した。噴火のピークは6月15日で、火砕流が基地の近くにあった演習場を埋め尽くし、基地自体の敷地にも侵入した。航空機の格納庫を含む多くの建物が、屋根に降り積もった火山灰の重さで倒壊した。当時の冷戦終結という環境変化もあり、基地の使用期限延長はなされず、アメリカ軍はクラーク空軍基地の放棄を決定し、スービック海軍基地と共に、1991年11月26日にフィリピン政府に返還された。

Wikipedia、「クラーク空軍基地」)

 

オロンガポの北西5kmほどのところ、スービック湾の奥まったところにあった海軍基地と共に返還されたのでした。

 

1992年、フィリピンの別の場所に1年ほど住んであちこちを回ったときに、現地の大学の先生の故郷に連れて行ってもらいました。

その地域は、サンフェルナンドからさらに北へと「日比友好道路」をまっすぐ走り、山道を上って棚田が広がる地域でした。

その時のあの棚田の水はどこからくるのだろうという疑問が、いま全国の田んぼや用水路を訪ね歩くきっかけの一つになっているのですから、ほんと、人生わからないものですね。

 

途中、彼女とピナトゥボ山の噴火とアエタの人たちの避難生活について話をした記憶があるのですが、まさかその翌年に日本で冷夏のためにお米が足りなくなるとは思ってもいませんでした。

 

 

今、地図を見返すと、あの広大な水田地帯はバタアン半島と北部の山岳地帯に挟まれた地溝帯、あの石川県の羽咋(はくい)の地溝帯に似ているように見えます。

ルソン島の地形やそして水田開発の歴史を知りたくなりますね。ルソン島の田んぼや用水路や川を歩いてみたい。あちこちの村で、その歴史話を聞いてみたい。もう叶わない夢の一つですが。

ブラタモリ海外編とかないですかね。

 

 

 

*今回は本当に備蓄米放出が必要だったのだろうか*

 

そうそう、いろいろと思い出したのは、あの時から始まった備蓄米制度は「10年に一度の凶作にも耐えられるように」というためのようですが、稲作というのは国内だけでなく海外の災害からも大きな影響を受けると社会も認識し、最初はパニックだったけれど少ないお米で乗り切った記憶です。翌年にはなんとかまた食べられるだろうと希望を持って。

ピナトゥボ山の噴煙による冷害のようなことは、感覚的には数十年に一度とか100年に一度かもしれませんね。

 

今回は、そういう決定的な量の不足がないうちから「備蓄米の放出」が効果があるように主張する人がいて、どんどんとそういう方向になったことに今更ながら違和感が出てきました。

「新米が出れば」の農相の発言も批判されていますが、もしかしたら当時の政府内ではすでに投棄的な動きがわかっていて、まさかここまで高騰させることにはならないとタカを括っていたのだろうなと。

 

だとすると、最初から備蓄米の放出を狙っていた人はその後の米の輸入が目的だったのかもしれないと妄想しています。備蓄米制度も壊したかったのだとすると、相当責任は重いですね。

まあもっと責任が大きいのは米価の高騰のきっかけを作った人たちですけれど。

 

冷夏の原因になったこのピナトゥボ山のあるフィリピンもそして広く東南アジアもまた、翌年の収穫に大きな影響があったことでしょう。

米不足は日本だけじゃあなかったはずですからね。それなのに当時、日本の緊急輸入のためにバランスが崩れたこともあったことでしょう。

 

 

災害は忘れた頃にやってくる。

そのための備えですね。

当時の政府は、国内だけでなく周辺の国のことも考えて制度を作ったのではと思います。

 

 

 

 

 

 

 

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