また散歩の記録がどんどんと遅れていきますね。
今考えなければ、目を覚ましていなければということが次々に出てくるので、寄り道ばかりです。
さて、浅川にかかる平山橋を渡り平山城址公園駅から帰ろうと駅へ向かう途中に、線路脇に小さな公園があり、そばに浅川右岸の用水路らしい水路と「完成記念碑」と彫られた石碑も見えました。
出口公園の名前の由来も興味深いし、水路の歴史が書かれた石碑かもしれないと立ち寄ってみました。
碑 文
日野市平山地区は平安時代末期から鎌倉時代(一一九二〜一三三三年)にかけて活躍し「平家物語」や「吾妻鏡」にも描かれている武将 平山季重(ひらやますえしげ)公が本領としていた地区です
この付近は小字名が出口や小出口という地名がついていますように 平山季重公の居館跡といわれている大平山大福寺の出口があったと伝えられています
又 京王線北側には富士の秀峰を借景とした風光明媚な田園風景が広がっていました
武将と家臣団の居住地となっていました本地区は 城下としての特徴を色濃く残した土地柄で 狭く曲がりくねった道路が多い地区となっており 自動車の通行には多くの問題が生じていましたため 平成六年に土地区画整理組合設立準備会を結成し 土地区画整理事業によってまちづくりを進めることが決定しました
この地区のまちづくりの方針は 浅川堤防下の水路を利用して子ども達が水辺で遊べる公園を整備することと 京王線に沿って道路を配置するとともに狭い踏切を広くて段差の少ない踏切に改良し 平山城址公園駅へのアクセスも容易になるような計画に基づき平成十四年十一月に事業認可を取得し 以来七箇年をかけてここに事業竣工を見るに至りました
事業の完成を迎え 指導監督及び財政的援助をいただきました東京都 日野市をはじめ 地域住民の皆様に厚く御礼申しあげますとともに 日野市平山地区の発展を祈念し この碑を建立いたします
平成二十二年三月吉日 日野市平山土地区画整理組合
京王線というと都心と郊外をつなぐ鉄道ですから、てっきりこの辺りも人口過密によって市街地化した比較的新しい場所なのだろうと思っていました。
60年代の都内は都心でもまだまだビルがあるのはごく一部で普通の住宅地でしたし、70年代終わり頃は世田谷でも畑が多かったので、桜上水駅あたりを過ぎると一気に「郊外」の雰囲気でしたし、80年代でも郊外へ向かう京王線や東急東横線の沿線の小高い丘陵地は森で、その後急激に崖っぷちに家が立つようになったのでした。
民間開発で市街地が虫食い状態に拡大するスプロール現象とか、10年ほど前には「焼き畑的都市計画」と呼ばれたように、無秩序な街づくりから土地区画整理がおこなわれているイメージでした。
ところが、「武将と家臣団の居住地となっていた本地区は 城下としての特徴を色濃くした土地柄で 狭く曲がりくねった道路が多い地区」の一文でイメージとは違う歴史があったことを知りました。
そうそう、外敵との交戦の難を逃れるのに好都合の迷路だったと小さな説明書きがあった、あの近鉄橿原線石見駅の近くの住宅地を思い出しました。
道に歴史ありですね。
それを守りたいと思う気持ちと、生活を便利にしより安全にし子どもたちにも良い環境をという思いに対して住民で組合を作り、「市民の思い」「専門家の思い」そして「行政の思い」から議論をつくし、街を作ってきた記録でした。
あちこちにある見過ごしそうな石碑、大事な記録ですね。
それはとりわけ戦後、時間をかけて民意をまとめてその地域を守ってきた歴史、それを正確に誰もが読めるようにしてきたことの記録でもあるのかも知れません。
*おまけ*
平山城址公園駅の歴史を読むと、1925年(大正14)に南電気鉄道として開業し、その後、京王電気鉄道から「戦時合併に伴い東急電鉄(大東急)」となり、1948年(昭和23)に「東急から京王帝都電鉄が分離独立」して現在に至るようですが、鉄道の歴史も知れば知るほど知らないことが増えていきますね。
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