二ヶ領用水せせらぎ館はこぢんまりとした資料館ですが、パネルは圧巻でした。
「二ヶ領用水って何?」には、登戸の少し上流の中野島から河口まで、多摩川と鶴見川の間にまさに網の目のように用水路が村の間に張り巡らされている江戸時代の絵図が描かれていました。
二ヶ領用水という名前を聞いたのはたぶん、30~40年ほど前に玉川上水の本だったと思うのですが、以来少しずつ歩くようになってようやくどのあたりを潤していたのかが漠然とつながってきた程度でした。
それが目の前に地図として残っています。
江戸時代までの新田開発と治水の歴史と技術はすごいものががある、とまた立ちすくみました。
その絵図は転載できないのですが、パネルの説明を記録しておきましょう。
二ヶ領用水はどこからどこまで
二ヶ領用水は、多摩川に2ヶ所の堰を設けて取水しました。ひとつは上河原堰、もうひとつは宿河原堰です。この二つの堰で取り入れた用水路は、JR南武線久地駅近くで合流し、今の川崎市域のほぼ全域に分かれて流れました。幹線水路の全長は約32kmといわれましたが、現在は、多摩川大橋に近い平間浄水場の横までしか残っていません。
二ヶ領用水はいつできた?
関ヶ原の戦いがあった3年前、1597(慶長2)年に測量が始められ、その2年後に開削工事にとりかかりました。完成したのは、測量開始から14年後の1611(慶長16)年です。現在のJR南武線沿線の地域は、この用水によって農村地帯として発展しました。
二ヶ領用水を造ったのはだれ?
二ヶ領用水上河原線にかかる台和橋のリレーフや世田谷区の次大夫堀公園に、その名を残しているが小泉次大夫という人です。徳川家康の家臣で、用水開発を家康に進言して、四ヶ領用水開削の用水奉行を任命されました。この次大夫の指揮の下に、地域の人たちが協力して用水が造られたのです。
二ヶ領用水はどのようにして造られた?
今のように機械など全くない江戸時代です。用水掘りは、ひたすら人の力で行われました。クワやスキで土を掘り、モッコに入れて運び、土手などを造りました。このように実際に用水堀を掘っていったのは、地域の農民たちでした。二ヶ領用水は、農業の合間に、こうした作業を10数年も続けた農民たちの労苦のたまものといえます。
二ヶ領用水は、なぜ造られた?
そもそも二ヶ領用水は、1590(天正18)年に多摩川が大洪水を起こして流路を変えたことから、新たに農業用水を引き、水田を開発するために造られました。この用水を用いて栽培された米は、3代将軍家光が鷹狩りに来た時に賞味し、以来将軍家の御飯料になりました。のちに稲毛米と呼ばれ、江戸ですし飯として大人気だったそうです。
二ヶ領の「二」の意味は?
川崎領と稲毛領の「二」つの「領」にまたがって流れたことに由来します。二ヶ領用水と対岸の世田谷領・六郷領を流れる六郷用水を合わせて「四ヶ領用水」と総称することがあります。両用水は、同じ小泉次大夫の指揮のもとに、ほぼ3ヶ月交代で交互に工事が進められました。そのため「双子の用水」などと呼ばれたりしました。
変わる用水の用途
水田を灌漑し、農民たちの生命の水として使われてきた二ヶ領用水ですが、時代とともにその用途は変化してきました。近年に入ってからは、農業用水だけでなく、工業用水にも用いられました。さらに現在では、都市生活に潤いを与える環境用水として、その位置付けは大きく変わりました。
二ヶ領用水の保存運動
春には水辺の桜並木がたいへん美しい二ヶ領用水ですが、少し前までは工場廃液や生活排水の流入で汚れきっていました。何とか、この用水堀に新しい存在価値を見いだして、後世に残していきたい。そのような市民の願いを実現するために、「二ヶ領用水の再生を考える市民の会」や「二ヶ領用水・中原桃の会」などが誕生しました。そして、市民が自ら考え、行動し、提案していく、行政との新しい提携が実を結んで、快適な水辺の環境やすてきな散策路などが整備されました。今二ヶ領用水は、多摩川エコミュージアム構想の中に位置付けられて、その歴史的役割を復権する手立てが模索されています。
「堤防を歩きながら、1本の川をめぐる先達の願いや苦悩に思いを馳せる」。
大事なことですね。
そしてこうして各地で歴史の散策路を保存してくださってきたことで、川や用水路に思いを馳せる人も増えたことでしょう。
案外「令和のコメ騒動」を冷静に忍耐強く見守っている国民も多いのではないか。
二ヶ領用水を知った頃には考えつかなかった時代になりました。
「二ヶ領用水」を歩いたり考えたりしたことの記事が増えたので、まとめを作ります。
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