散歩をする 566 武蔵野台地周縁部の狛江古墳群を歩く

二ヶ領用水せせらぎ館を訪ねることができて満足し、少し上流へと堤防道路を歩いて戻り、稲田多摩川公園の横を歩きました。

道路のそばに突如として建つ水門が何か、美しく整備された河川敷の下に放水路があることを気に留めずに通り過ぎる人も多いだろうなと思うほど存在をすっかり隠しています。

 

その先にある大きな橋は初代多摩川水道橋で歴史深い橋だということを2019年の散歩で知りましたが、今回いよいよ初めて渡ります。

幅の広い歩道もある橋ですが川風の強さに足がすくみそうになり、そそくさと渡ろうとしたのですが、橋の上で気づきました。

登戸駅を降りた時にまだ黄砂の季節でもないのに空が黄色く霞んでいたのは、川周辺の地域だけ帯状に土埃が舞っているのが下流まで見えました。空をさえぎるものがないというのは、気象の変化を見るのにも大事ですね。

 

さあ8つの古墳を訪ねる計画ですが、川のそばの生活は川風に影響されますからね、歩ききれるでしょうか。

 

*崖線のヘリの古墳へ*

 

ここよりももう少し下流東急東横線多摩川を渡る時には国分寺崖線がはっきりわかるのですが、小田急線だと、成城学園前駅から地上に出た時に野川左岸の崖線がはっきりわかるくらいで、野川右岸から多摩川にかけてはあまり高低差がないように見えます。

古墳というと小高い場所に造られるイメージですが、ほんとうにあるのでしょうか。

 

多摩川水道橋を渡ったあと東へ100mほど歩いたところから猪駒通りへ入り、しばらく住宅街のゆるゆると蛇行した道を歩きました。「想定浸水深2.0m」の表示があります。

 

堤防のすぐ裏手で、多摩川決壊の碑があるあたりで、北へと曲がり、最初の古墳を訪ねました。かつては多摩川そばの田畑だったのか、かなり住宅地の道が入り組んでいてGPSなしには見逃しそうな場所に、「猪方小川塚古墳公園」がありました。

小さな公園にベンチがあり、端に屋根で覆われた盛り上がった場所があります。すぐ隣が住宅でした。

猪方小川塚古墳(いのがたおがわづかこふん)

 猪方小川塚古墳は、多摩川中流域左岸の武蔵野台地縁辺部に築造された横穴式石室を伴う円墳です。覆屋内には全長4.9メートル、軟質泥岩(凝灰質砂岩)の切石切組積みの石室(玄室・前室)が保存されていいます。天井石は発見当時から失われていましたが、石室は奥壁部分で四段現存しています。

 覆屋周辺の高まりは墳丘の一部で、その周囲には周溝と陸橋が地中保存されています。円墳の直径は最大29.2メートルと推定されています。

 玄室床面からは金銅製耳輪、鉄鏃、棒状鉄製品、刀子が発見されています。鉄鏃の形式から、横穴式石室への最終埋葬は七世紀中葉と考えられます。

 また墳丘覆土内から出土した須恵器長頚瓶と大甕(八世紀前半以降)、周溝から出土した灰釉陶器長頚瓶(九世紀後半以降)、墳丘覆土上面から出土した北宋銭(中世)により、古墳が使われなくなって以降も、墳丘や周溝が利用されていたことがわかっています。

猪方小川塚古墳を含む狛江古墳群の造営時期は、これまで五世紀後半から六世紀中葉までと考えられてきました。本古墳群の発見により、その終焉が古墳時代終末期にまで下ることが明らかとなりました。六世紀以降の多摩川流域における切石積横穴式石室の導入や展開、首長墓の系譜を考える上で学術的価値の高い古墳です。

 令和五年三月     東京都教育委員会

 

周囲の比較的新しい住宅に囲まれているので、見過ごしそうな公園ですが、こうして新たに整備され保存されていく。すごいことですね。

 

さて、次はここから東へ直線距離だと100mほどにある前原下映塚古墳を目指しました。

迷路のような道を行ったりきたりしながらその方向へと向ます。

少しだけ今までの場所より高い場所のような気がしていると、暗渠があり、さらに一段高い場所に赤い鳥居とお稲荷様がありました。マップではここがその古墳のはずですが、何も表示がありません。

 

あきらめて次へと向います。

北へと歩くと広い畑が残る場所になりました。これぞ、私の記憶にある世田谷の風景です。1990年台でも環八沿いにも畑が残り、あちこちに無人野菜販売所があったのでした。

 

古墳はどこだろうと地図と照らし合わせると、なんと畑の真ん中にありました。

前原塚古墳で、お椀を伏せたような場所に木が生えていて紅梅が満開になっていました。

そばへ行きたいと入り口を探しましたが、畑仕事をされていらっしゃる方々の姿があり、どうやら個人の所有地のようです。真冬だというのに、整然と畑が作られていました。

 

次はそこから北へ100mほどのところを東へ曲がりまた100mほどのところにある猪方稲荷塚古墳です。

大きな屋敷のような農家と分譲された住宅地を過ぎると、ブロッコリーの畑が見えました。

その角に赤い鳥居と小さなお社があります。地図ではどうやらそこが古墳のようです。

 

ブロッコリー畑と稲荷神社の間の道を東に百数十メートルほど歩くと、次の猪方767番地古墳があるようです。

アパートが多い場所の駐車場の脇にまた小さな赤い鳥居と小さなお社があります。他に何も表示がないので、ここが古墳のようです。

小田急狛江駅和泉多摩川駅のちょうど中間の東側、徒歩数分ぐらいの地域です。

 

次の古墳を訪ねる前に地図で気になっていた「矢崎山」へ向かいました。

狛江市立狛江第三小学校の敷地内にあるようです。小学校もあるくらいですから、微高地でしょうか。どんな山だろうとワクワクしながら、猪方767番地古墳から東へ150mほど歩くと小学校の敷地内に小さな林のような場所がありました。

富士塚のような「山」を想像していたのですが、「山」というよりはそこから北側は一段下がり、暗渠がありました。

今まで歩いていた場所自体が微高地だったようです。

 

 

多摩川左岸の微高地を縫って流れていた小さな川沿いへ*

 

 

暗渠ということはかつては川があったのでしょう。そこを歩いてみよう、計画変更して小学校の北側へと下ると、住宅の間が小さな遊歩道になっていました。

西へと道なりに遊歩道を歩くと、左手の方が高い住宅地になっていきました。

猪方767番地古墳の北側を蛇行する川だったようです。

その先に民家の一角が小高くなっていたそのてっぺんに小さなお社が見え、次に訪ねる予定だった清水第一号古墳に行き着きました。

すごいですね、自宅の敷地内に古墳があるなんて。80年代ごろは「世田谷の豪農」という表現をよく耳にしたのですが、ただ広い農地を所有しているだけでない、そんな感じでしょうか。

 

小高い古墳を見ながら歩いていると、住宅地の電柱に「想定浸水深4.0m」の表示がありました。「この場所は多摩川が氾濫すると浸水する可能性があります(上の赤いテープの高さ)」という意味で、見上げる高さでした。

周囲には住宅がぎっしりと建っています。通勤通学には便利な場所ですからね。

おそらく半世紀ほど前は、畑が広がる中を流れる小さな川のそばで、まだまだ住宅地として住むには適さない場所だっことでしょう。

古墳が多いということは多摩川よりも高い場所故に水を得にくく、水田よりは畑が広がった。それが世田谷のあたり、そんな感じでしょうか。

 

道なりに遊歩道を歩くと、竹藪の中に別世界がありました。清水川公園で、親水公園とともに防災の施設があるようです。懐かしい手押しポンプの井戸がありました。

 

 

*マンションの敷地内の古墳へ*

 

残るはあと2つの古墳です。

世田谷通り(都道3号)へ出て、まっすぐ北東へと500mほど歩いたところにあります。風がだいぶ冷たく感じられるようになる中、交通量の多い道というのは疲労感が増す散歩ですね。

沿道はマンションやら商店が立ち並ぶ風景ですから、またきっと小さなお社が残るだけだろうと思いながら歩きました。

 

想像した通り、その場所には大きなマンションが建っていました。

がっかりしながら喜多見駅へ向かおうと思った時に、説明版らしきものが目に入りました。

   土屋塚古墳

        指定年月日 昭和61年1月4日

 土屋塚古墳は、狛江古墳群のうち岩戸(いわど)の地に残された数少ない古墳のひとつとして、また墳丘の残存状態が良好な古墳として、昭和61年に市史跡に指定されました。

 平成16年には、墳丘の南側から東側にかけて発掘調査が行われ、古墳築造の時期や当初の形態・規模が明らかになりました。直径33メートル、高さ4.5メートルを測る円墳で東側に造出部(つくりだしぶ)を有し、その外側に幅1.5mほどのテラスと幅10メートルほどの周溝が取り巻くことが判明しました。

 周溝からは、もともと墳頂や墳端に並べられていた埴輪が、周溝内に転落した状態で出土しました。これら埴輪は、製作技法から上野(かみつけ、現在の群馬県)に拠点をおく工人集団が、この付近で採取される粘土で製作したものと考えられます。また、河内地方を起源とする装飾が施された朝顔型円筒埴輪や鳥付円筒埴輪なども出土しています。造出部で墓前祭祀が行われたものと考えられます。

 土屋塚古墳は、出土遺物から5世紀第3四半期頃に築造された古墳と考えられます。多摩川流域では、5世紀に入ると、それまで古墳が築造されなかった野毛(のげ、世田谷区)の地に、野毛大塚古墳に代表される大型の帆立貝形古墳が築造されはじめますが、狛江の地でも、野毛地区の動向と連動して、5世紀半ばから古墳の築営がはじまります。土屋塚古墳は、そのなかでも比較的早い時期に築造された古墳で、帆立貝形を模した造出部を有するなど、多摩川流域の古墳文化の動向や、当時の地域間関係を知るうえで、大変貴重な古墳です。

 平成27年3月       狛江市教育委員会

 

なんと、マンションの敷地の植栽で少し小高くなっているのかと思ったら古墳でした。

すごいですね、窓から古墳を眺めて過ごす生活があるなんて。

 

 

さあ、最後の古墳を訪ねることにしましょう。

世田谷通りを戻り、三叉路でいちょう通りへと入りました。

しばらくして北へと路地を曲がると、武蔵野台地の舌状台地の周縁部だと感じられる上り坂です。

道なりに西へと歩くと、蔵のあるお屋敷がありその一角に橋北塚古墳があるようです。

 

 

小田急線の車窓からもごく最近まで畑が見えていた地域ですが、こんな感じで今も個人の敷地内に古墳が残る場所だったとは。

風が強く冷たくなってきて心が挫けそうになりましたが、二ヶ領用水と狛江古墳群と、勉強になる散歩でした。

 

 

 

*おまけ*

 

今回の米騒動で盛んに「水田の大規模集約化」と意見が書き込まれるのですが、きっと地元の散歩さえしていない方かもしれませんね。

ホント、複雑なわずかの微高地でさえ高低差のある土地を利用するというのは大変なのに、ブルドーザーで整地すればいいじゃないくらいに思っているのだろうな。

日本中、あちこちでまだ道路面さえ水平でない道もそこかしこにあります。

その水平に作った田んぼに上流から下流まで滞ることなく水を張り巡らして水争いを起こさないように平等に流し、さらに排水させなければ良い田んぼはできないようですからね。

古墳が多い地域を歩くと、きっと「米を食べたい、作りたい」と思いながら生活していたのだろうなと想像しています。

 

 

 

 

 

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