57分の新幹線の車窓の散歩があっという間に終わり、8時31分に新富士駅に到着しました。
ここからJR富士駅までバスはあるのですが時間が合わなかったので、約1.6kmを歩くことにしました。
駅前から富士山の麓が間近に見えますが、八合目あたりから頂上まで笠雲がかかっていました。午後から本降りの予報ですから、先を急ぎましょう。
途中、水路や横割八幡宮に立ち寄っていたら、9時12分の電車にギリギリセーフでした。ふう、危ない。
東海道本線と分かれた身延線は大きく北へと走り、潤井川を越えると西へと曲がり、9時21分入山瀬駅に到着しました。
*「洋紙製造発祥の地」*
龍源淵まで少し下り坂を歩く途中に「洋紙製造発祥の地」「夜明けの像」「富士馬車鉄道跡地」の石碑がありました。
洋紙製造発祥の地
明治二十三年一月鷹岡村のこの地に全国初めの洋紙製造工場として富士製紙第一工場が創設された。それを機会に地域の人々の製紙についての関心が高まり製紙業の興隆に寄与することが大きかった。
この工場の創業に先立ち、明治二十三年七月には吉原大宮間に大宮新道が新設され、また明治二十三年六月には、鈴川駅から大宮町まで富士馬車が開通、南富士産業の要地としての現在の鷹岡本町が形成されたのである。
鷹岡本町創立百周年を迎え、記念碑を建立して先人の遺徳に感謝を捧げる。
平成四年一月吉日
夜明けの像
この少年像は明治二十三年(一八八九年)にアメリカのブラックローソン社より購入した抄紙機のマスコット(幸運をもたらすお守り)として送られてきたものです。この抄紙機は富士製紙(現新富士製紙)の第一号機として我が国で初めてグラウンドパルプによる新聞用紙の製造に成功した機械で一躍鷹岡地区の産業文化の夜明けをつけた意義あるものです。
現在は東京王子の紙の博物館にありますが鷹岡本町百年を記念して再び故郷鷹岡の地に複製品としてもどってまいりました。
平成四年十一月
ここから龍源淵へとけっこうな下り坂になりますが、道沿いに製紙工場がありました。
そして山からの小さな急峻な流れが工場の間を流れていて、水が豊富な地域です。
入山瀬駅から静かな住宅地と商店がぼつぼつある道路でしたが、この石碑があることで風景が違って見えました。
平成四年(1992年)、当時は公害を克服して、生活の中に「環境」という言葉が浸透し始めた時代でした。
1970年代ごろの富士山麓と駿河湾の公害の光景が印象に残っていたので、大資本が水田を潰して製紙工場を造ったのだと思い込んでいたら、そこは浮島ヶ原という湿地が先であったことを知ったのが2022年でした。
この石碑でまた、この地域では1887年に洋紙製造業が先に興って地域を発展させたのだと知ったのでした。やはり実際に歩いてみるのは大事ですね。
*潤井川からの分水、富士早川へ*
岩が重なるような場所が龍源淵で、そこから下流は桜の名所のようですが、3月中旬でしたから菜の花と河津桜でした。
右岸に幅数メートルの用水路が山肌に沿って流れています。これが地図に描かれている用水路のようで、このそばを歩こうと計画していましたが交通量が多く、しかも歩道がほぼありません。あの土佐湾沿岸と同じく、よくよくマップを確認すると確かに歩道はなさそうでした。
あきらめて少し下流の富士早川が始まるあたりの地域を目指しました。富士早川はここからほぼ真っ直ぐ、途中で市街地をジグザグと流れながら最後は入道樋門公園のあたりで駿河湾へ流れています。
どんな歴史があった川でしょう。
田んぼが残り、側溝に富士早川から分水された清らかな水が流れています。
滝戸バス停のあたりから、先ほどの用水路ぞいの県道176号に戻ってみると歩道がありました。
ただ、目的の用水路は道よりも2~3mほど高いところを流れているので、見えません。
まあ、いいか。
どこまでどんな場所を通っているのだろう、途中できっと何か説明があるに違いないと思いながら歩いていると、地図に池ようなものが描かれている場所に静岡県企業局の「富士川工業用水道沈砂池」と表示がありました。
そこから先は、また道よりは高い場所ですが水面が見えています。
*上堀桜堤*
てっきり農業用水だと思って訪ねたのですが、工業用水の用水路なのでしょうか。そばに小さなお社があるのは水神様ですね、きっと。
背より高い土手を見ながら歩いていると、なんとその上を散歩している人がいて遊歩道になっているようです。
「歩く健康づくり一万歩 岩松北 岩本歴史の道散策コース(富士市教育委員会)」という標識があり、土手へ登る階段がありました。
「ここは 上堀桜堤入口」とあり、用水路は「上堀」という名前だとわかりました。
名前からするとやはり農業用でしょうか。
土手の上は林との間に水路が流れ、なんだか子どもの頃に遊んだ林の中の道を歩いているような場所です。先ほどまで車に煽られていた道とは一変しました。
早春の芽吹き始めた土手の緑と水仙や黄色のかたばみ、そして薄紫のムスカリと美しい道で途中に木のベンチがあって水面を眺められるようになっていました。。
草むらを目を凝らしながら歩いていたら見つけました。今年初めてのタチツボスミレです。
90年代頃の住宅地でしょうか、土手より一段下に続いています。かつてはこのあたりもおそらく田んぼだったことでしょう。ところどころ水路に水が勢いよく流れていました。
しだいに土手が下り坂になって、水路と道路が同じ高さになりました。
途中、赤い鳥居と小さなお社が水路のそばにありました。
緋寒桜も水辺に映えていて、落ち着いた住宅地が続いています。田んぼもありました。
轟々と音がするところに分水路がありましたが、右側は堰き止められていて流れていません。
水のない方の水路ぞいに歩くと、その先で護岸工事中でした。これからの季節のための整備でしょうか。
*富士川の雁堤へ*
右手に富士川の堤防が見えるようになったので、もう少しで雁堤です。
スポーツ広場の遊水地のそばを抜けると、2023年に訪ねた時と同じように雁堤と案内板が見えました。懐かしい!
雁堤(かりがねづつみ)
雁堤は、富士市を流れる富士川の東岸にあり、岩本山山裾から松岡水神社まで及ぶ大規模な堤防です。形状が、雁が連なって飛ぶ形に似ていることからその名がつきました。
雁堤ができる以前の富士川は、広範囲に川筋が広がっていたと考えられ、たびたび氾濫する暴れ川でした。そこで江戸時代初期、中里村の古郡孫太夫重高(ふるごおりまごだゆうしげたか)は、籠下(かごした)村(現松岡)を開拓するために堤防工事に着手しました。
まず、重高は元和年間(一六一五〜一六二四)岩本山麓に突堤「一番出し」「二番出し」を築いて流路の変更を図り、子重政は堤防補強と新田開発に手腕を発揮しました。重政の子重年は、釜無川(山梨県)の信玄堤(しんげんづつみ)を参考にかわの氾濫を鎮めるため、連続する突堤を築き広大な遊水地を設け、ついに延宝二年(一六七四)雁堤が完成しました。これにより、雁堤の南東一帯の加島平野は「加島五千石の米どころ」と呼ばれる豊かな土地に生まれ変わりました。
雁堤の築堤は大変な難工事であったため、古郡氏は工事の成功を願って、現在の松岡神社や中島天満宮を祀ったほか、治水工事に見識の深い鉄牛禅師(てつぎゅうぜんじ)と親交を持ち、完成後に鉄牛禅師を請(しょう)じて松岡に瑞林寺を創建しました。また、現在の護所神社の位置には、堤防の要として人柱を埋めたとする伝説も残されており、雁堤の完成が当時の人々にとっていかに悲願であったか偲ばれます。
こうして古郡氏三代による五十年余の長い年月をかけて完成した雁堤は、現代においても現行の堤防として行き続け、私たちの日々の安全を支えてくれています。
(強調は引用者による)
前回は雁堤と富士川の治水の歴史と雁堤のための人柱の話に圧倒されたのですが、雁堤で守られた加島平野にどうやって水を引いたかについてまで思い至っていませんでした。
富士川左岸の海岸付近までの地域ですから、きっと富士川のとこからか取水しているだろうと。
そのあと地図を何度も眺めているうちに、今回の潤井川からの水路が目に入ったのでした。
加島平野というのは東海道本線や東海道新幹線が通過している河口付近の平地だと思いますが、「森島」「水戸島」「宮島」「五貫島」と、瀬戸内海の干拓地でもないのに「島」がつく地名が多いのはなぜだろうと気になっていました。
おそらく雁堤がない時代には、微高地が点在していたからかもしれませんね。
雁堤で富士川からの水害を守り、そして水路は潤井川から引いた。
漠然ですが全体像が見えてきました。正解にたどりつくでしょうか。
いずれにしても上堀を歩くことができただけでも、今回の散歩は大収穫でした。
*おまけ*
6月に入った頃は、まだマップに「上堀」は表示されていませんでした。ところが、6月8日に下書きを書くためにマップを見たら富士市内の用水路だけでなく、全国各地の水路名の表示が増えていました。
すごい、デジタルの世界ですね。ありがたや。
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