早朝から富士山頂と東海道新幹線を見ることができ、前日とはうってかわって良いお天気になりそうですが、3月中旬、どうやら黄砂と花粉も舞うようです。
2日目は潤井川沿いに用水路と新田開発の歴史をたどり、体力があればいつも新幹線の車窓から見ていた工場群と田子の浦のあたりを歩こうという、ほぼ富士市の市街地から沿岸部を歩く無謀な計画です。
どこまで歩けることやら。
潤井川沿いに行く前に、地図で見つけて気になっていた場所を目指します。
海岸に「入道樋門公園」とあり、二つの川がそこへ流れ込んでいます。
これを見つけた頃はまだマップに小さな河川や用水路名が表示されていなかった時期で、たどるとあの龍源淵から分水されている水路のようです。
そして「樋門」という言葉に惹きつけられました。
*助六地区から入道樋門公園へ*
ホテルを出発し、国道1号線をわたって1本の水路を目指しました。地図に「不動明王」と示されていたので、何かこの地域のことがわかるかもしれません。
かつては田んぼだったのだろうなと思う住宅地から水路のある道へと入ると、美しい日本家屋があり、大きな一本の木と小さな鳥居、そして倉庫のようにシャッターのついた小さなお社がありました。水害から守るためでしょうか。
大日如来の化身と言われる不動明王は除災招福・病気平癒・家内安全といったご利益があるとされ崇められてきました。本尊は地域の人達が正徳2年(1712年)に発願してお祀りしたものです。 助六区
「助六」区。
前日に新幹線の高架橋を貫く水路で見た名前です。ここに繋がりました。
地名は「川成島」ですが、平地に見えるけれど微高地なのでしょうか。
こぶしの花が咲き、田んぼも残っています。振り返れば富士山が裾野まで見えるのですから、なんとも美しい街です。18世紀ごろはどんな風景だったのでしょう。
この少し先から暗渠になり、県道174号線に出て道なりに歩きました。北東側から流れてくる川がぐいと西へと曲がった先に公園がありました。
海岸沿いの松と森が美しい公園の向こうには、製紙工場でしょうか、川のそばに大きな工場が見えます。
*富士早川と下堀川が合流する入道樋門公園へ*
入り口の地図で、先ほどの川が「下堀川」であることがわかりました。
潤井川から取水された水が上堀・中堀・下堀に分かれ、中堀から富士早川になりここで下堀川とつながるようです。
海側は自然堤防のようでなだらかに小高くなっていて、その向こうに樋門らしき場所が見えました。
その途中に「富士工場夜景」と夜景の映るの案内板がありました。
製紙工場ではなくポリプラスチックス(株)だそうです。
富士市の工場夜景
富士市は、富士山の豊富な湧水の恵みを受け製紙業が発達したため、点在する湧水の周辺に工場が設立された歴史があります。そのため、工場も市内各所に点在しており、そこには四季折々の自然や生活の息吹が根付いていて、ひとつひとつの工場夜景にも豊な個性が宿っています。
ああ、まさに。
「湧水」に惹かれて富士市を歩くようになって、実感する文章です。
もう一つの川が合流している先にコンクリート製の「入道樋門」がありました。海のそばですが「海抜3.2m」もあるようです。
その手前に大きな石碑と何か遺構らしきものがあるので近づいてみました。
石積みの昔の樋門の一部が保存されているようです。
どんな歴史がある樋門でしょうか。
*「入道樋門完成記念碑」*
ききょうの里の沃野(よくや)を緩やかに流れる富士早川と、下堀川の合流する河川を入道川と称しています。
河口は狭隘(きょうあい)で高低差もなく、ひとたび集中豪雨と風浪に襲われるとたちまち氾濫と河口の閉塞等の水害を繰り返し、耕地を泥沼化し荒廃させて参りました。
地域住民は過去何代かに渡り、強風と荒波と闘いながら危険な「川切り」に身を挺し、河口を開削して濁流を海に放ち、先祖伝来の土地を守り育てて来ました。
この先人達の自然の猛威に挑む姿は今日まで長く語り継がれております。
旧入道樋門は昭和九年、田子の浦樋門は昭和二十八年に高潮対策として築造され、以来門扉の調節により水害の未然防止が図られて参りました。
しかしながら、上流地域の都市化は著しく河川の断面不足と同時に樋門も能力不足と老朽化により、抜本的な改修工事の必要性が長年に渡り要望され続けて来ました。
平成二年、漸(ようや)く要望が実を結び、富士早川の一級河川昇格を機に富士市による河川改修事業が着手され、平成六年には住民の意見が反映された新入道樋門の建設が県事業により着手されました。
新入道樋門は霊峰富士をイメージし、近代土木技術の粋を駆使して平成十二年に完成しました。
ここに郷土先人達の労苦に敬意を表し、地域住民の悲願達成を祝して碑を刻み、以って後世に伝えるものです。
平成十六年三月二十四日
田子浦地区まちづくり推進会議
富士南地区まちづくり推進会議
2004(平成16)年ですから、わずか20年ほど前に完成した樋門だったようです。
それでも1934年(昭和9)年に旧樋門ができた頃は、安堵があったことでしょう。
「強風と荒波と闘いながら危険な『川切り』に身を挺し、河口を開削して濁流を海に放ち、先祖伝来の土地を守り育てて来ました」
初めて聞く「川切り」という言葉ですが、状況を想像するだけで足がすくむ感覚になりました。
訪ねてみて、また一つ富士市の歴史を知ることができました。
「水のあれこれ」まとめはこちら。
「樋」についてのまとめはこちら。
工場地帯と田んぼの境界線を歩いたまとめはこちら。